人文社会系研究

連載:The Illustrated London Newsでみる第一次世界大戦

2018.05.30

図版資料は、都市の景観、社会風俗、日用品などを視覚的に伝えるだけでなく、当時の集団的な無意識まで浮かび上がらせる貴重な資料です。歴史的な図版資料は日本でも多数発行されてきましたが、それを代表するのが「風俗画報」です。欧米の図版資料と「風俗画報」を比較することによって、一方の資料だけでは見えてこない部分が見えてくるかもしれません。

センゲージ ラーニング株式会社 Galeがデータベースで提供する欧米の図版資料と「風俗画報」を特定のテーマでご紹介する本企画、今回はイラストレイテッド・ロンドン・ニュース(The Illustrated London News, 以下 ILN) の記事から、第一次世界大戦における勇敢な兵士を報じたものを取り上げます。

連載:風俗画報でみる戦争報道:日清戦争

戦争の遂行には国民からの支持が不可欠です。第一次世界大戦時のイギリスのように海外に自治領や植民地を領有している場合、国内だけでなく帝国内からも支持を得る必要があります。第一次世界大戦では、イギリスは国内だけでなく、帝国内の自治領や植民地からも徴兵し、戦争を遂行しました。そのため、国内の一体感だけでなく、帝国内の一体感も演出する必要がありました。メディアはそのための格好のツールになりました。以下では、オーストラリア人、ニュージーランド人、インド人の戦闘行為に関する記事を取り上げ、どのように大英帝国の統合というイメージが形成されていったのか、その状況を探ります。

ダーダネルスの英雄たち ~ガリポリの戦い その1~

最初にご紹介するのはガリポリの戦いの報道です。同盟国側のトルコが抑えていた戦略的要衝ダーダネルス海峡の、連合国軍による侵略作戦で、上陸地点の地名からガリポリの戦いと呼ばれます。この作戦は、トルコ軍と、トルコの同盟国であるドイツ軍の強力な抵抗により、連合国軍は多大な損害を被りました。

ここにご紹介するのは、作戦初期の1915年5月29日に掲載された“Dardanelles Heroes: Australians; and A Transport’s Rescuer”(ダーダネルスの英雄:オーストラリア人、そして輸送救助艦)という記事に掲載された3枚の写真です。

ガリポリ半島で見事な英雄的行為を見せた人々:キャンプのオーストラリア人

輸送を救助したイギリス軍の船艦

ガリポリへの上陸を準備しているオーストラリア人

トルコ軍からの猛烈な攻撃を受ける中での上陸作戦について、従軍記者は「暗闇の中での上陸、高地の急襲、陣地の死守は、この度の戦争では例を見ない見事な武勲である」と、作戦を遂行した兵士たちを讃えています。連合国軍の中でガリポリの戦いの主役を演じたのは、イギリス自治領であったオーストラリアやニュージーランドの人々で、彼らはアンザック軍と呼ばれました。最終的に失敗に終わったガリポリの戦いにおいて多大な死者や負傷者を出したのも彼らでした。

ダーダネルスの英雄たち ~ガリポリの戦い その2~

次にご紹介するのは、1915年7月31日に掲載された“Heroes of Gaba Tepe: Collecting Australian ”(ガバ・テペの英雄:オーストラリア人の負傷者を救出する)という記事です。

海岸の斜面に数人の軍人が立っています。地面に身を横たえている人々は負傷した兵士と思われます。記事は、上陸後、負傷した兵士を救出するために、一昼夜かけてタンカーに載せて船まで運んだ、と救出の様子を伝え、ガリポリ半島のガバ・テペに上陸した後、負傷したオーストラリア人とニュージーランド人が示した英雄的行為は、植民地軍に勇気を与える偉大な精神の証となるものである、と称えています。

ダーダネルスの英雄たち ~アンザック・デイ その1~

ガリポリの戦いでのアンザック軍の英雄的行為の記憶は今も受け継がれ、オーストラリア、ニュージーランド両国では現在も上陸が実施された4月25日は「アンザック・デイ(Anzac Day)」という祝日になっています。ここに紹介するのは、ガリポリ上陸作戦の1年後の1916年4月29日に掲載された”Honouring the Heroes Who Died in Gallipoli: “Anzac” Day”(ガリポリで戦死した英雄に敬意を表する:アンザック・デイ)という記事です。このときすでに「アンザック・デイ」という表現が使われていたことが分かります。記事によれば、4月25日にウエストミンスター寺院で、国王ジョージ5世臨席の下、追悼ミサが行われました。ミサには負傷や罹病のため戦地を離れイギリスへ送られた1,300人のオーストラリア人と700人のニュージーランド人中隊が参加しました。

ウエストミンスター寺院に向かうニュージーランド軍の隊列

寺院を去る国王と陸軍大臣のキッチナー

ミサの場で国王は「オーストラリアとニュージーランドの我が臣民に告げられたい。私は彼らと共に、ガリポリで戦死した英雄たちの記憶に謹んで敬意を表するものである、と。彼らは我が英国の水兵や兵士とともに勇敢に戦い、至高の大義のために命を捧げた。その勇猛と不屈の精神は大英帝国の武勲に不滅の光を与えることになった」と述べたそうです。

ダーダネルスの英雄たち ~アンザック・デイ その2~

次の写真は終戦の翌年、1919年4月25日のアンザック・デイに行われたオーストリア軍の行進を撮影したものです。右側の建物はロンドンのオーストラリア自治領代表部が置かれていたオーストラリア・ハウスです。建物の前に立って観兵しているのは皇太子(後のエドワード8世)と戦争中、フランス派遣軍総司令官を務めたダグラス・ヘイグです。

ダーダネルスの英雄たち ~アンザック・デイ その3~

もう一つ「アンザック・デイ」に関する記事を紹介します。約20年後の1937年5月1日に掲載された“England Remembers — Zeebrugge; Shakespeare’s Birthday; Anzac Day ”(イングランドは忘れない-ゼーブルッヘ、シェイクスピアの誕生日、アンザック・デイ)という記事です。ゼーブルッヘとは、大戦末期の1918年にイギリス軍が攻撃したベルギーの港です。4枚の写真が1ページに配置されていますが、ここでは上下にわけてご紹介します。

左:襲撃に使われた巡洋艦ダフォディルの艦上で行われた記念式典
右:シェイクスピアの生誕地で行われたシェイクスピア生誕記念式典

アンザック・デイでのオーストラリアとニュージーランドの軍人・退役軍人の行進の様子

戦争後20年経過しても、ガリポリの戦いが、シェイクスピア生誕と並ぶほどイギリス人に記憶されていたことを示しています。またこれらの式典が、英連邦諸国や世界各国との友好親善を象徴する出来事の一つとして表象されていたことも分かります。

戦場のインド人

大戦にはイギリスの植民地インドの人々も参戦しました。次にご紹介するのは1914年11月7日に掲載された“The Indians in the Field: A Gallant and Successful Charge at A Certain Place”(戦場のインド人:ある土地での勇猛果敢で成功に終わった攻撃)という記事です。北西部フランスの連合国の塹壕を襲撃したドイツ軍をインド兵部隊がマスケット銃と銃剣で撃退した、と報じています。画面手前側のターバンを頭に巻いているのがインド兵で、画面後方がドイツ軍です。

大英帝国の一体性を伝える戦争報道

今回紹介した記事は、イギリス人とともに戦友として戦ったイギリス自治領や植民地の白人の人々の勇敢な戦闘行為を讃えています。これらの記事は、大英帝国の一体性を喧伝する効果があったことでしょう。特にオーストラリア人やニュージーランド人の勇敢な行為は、大戦終結後もアンザック・デイの行事を通じてイギリス人の記憶に長く止められたことが窺えます。

その一方で、インド人をはじめとする有色人種の人々の勇敢さは、イギリス人の記憶に残ったのでしょうか。それを明らかにするためには、さらにILNやその他の資料の記事を調べる必要がありそうです。

今回は、第一次大戦に参戦したイギリス自治領のオーストラリアやニュージーランドの人々の記事を例に、どのように大英帝国の統合というイメージが伝えられているかをご紹介しました。

(センゲージ ラーニング株式会社)

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