人文社会系研究

連載:風俗画報でみる戦争報道:日露戦争

2018.06.13

Web版 風俗画報は、ジャパンナレッジが提供する電子書籍プラットフォームJKBooks上で、我が国最初のグラフ雑誌「風俗画報」を提供するデータベースです。明治22(1889)年創刊、518冊からなる「風俗画報」は、わが国最大の風俗研究誌としても知られています。

風俗画報に掲載されている図版を、センゲージラーニング社Galeのデータベースに搭載された欧米の図版資料と比べながらご紹介する本企画、前回に続き戦争に関する特集をお届けします。

風俗画報での日露戦争報道

日清戦争という大きな戦争を経験した日本は、台湾征討、義和団の乱への出兵を経ていよいよ日露戦争へと突入します。

風俗画報では「征露図会」(27編プラス補遺)、風刺漫画の特集号「日ポン地」(7編)、出征軍隊凱旋図会(5編)と、次々に特集号を刊行しています。他にも様々な「画報」が創刊され、各種の雑誌、新聞からも特集号が出されました。「画報」スタイルでの戦争報道の先駆者、風俗画報としては、他誌に負けられないという意地があったのかもしれません。また、日清戦争の際、戦争の特集号が「よく売れる」ということを経験しているのも大きかったと思います。

今回は日露戦争の特集号から「戦争美談」に関するエピソードをお伝えしましょう。

軍神 広瀬中佐

大日本帝国海軍によるロシア艦隊の根拠地 旅順港の海上封鎖作戦(旅順港閉塞作戦)遂行中、閉塞船福井丸が敵の駆逐艦の魚雷を受けました。乗組員が撤退する中、船を指揮していた広瀬少佐(戦死後、中佐に階級特進)は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に下りた部下の杉野兵曹長が戻ってこないことに気づき、沈みゆく船の中で部下を探すうちに被弾し、命を落とします。

このエピソードは広く報道され、広瀬中佐は軍神として称えられました。後には、広瀬中佐を題材にした文部省唱歌まで作られます。

風俗画報の「征露図会第4編」にも、広瀬中佐の記事や図が多数掲載されました。以下の図版はまさに部下を捜している姿を描いたもので、迫力のあるカラー図版から臨場感が伝わってきます。

広瀬中佐三度杉野兵曹長を探くるの図 征露図会第4編 (明治37425日)

以下の記事では、早くも記事のタイトルに「軍神」という言葉が使われ、本文中には、銅像の建設が予定され、新聞社は義捐金募集に着手したことが記載されています。世論の反応の早さが伺えます。

銃砲の快音○鳴呼軍神広瀬中佐 征露図会第4編 (明治37年4月25日)

同じ号には、葬儀の様子を描いた図と写真が掲載されています。葬儀の大きさを伝えたかったものでしょう。

故広瀬中佐葬儀の図 征露図会第4編 (明治37年4月25日)

〈写真〉広瀬中佐葬儀の図其1 征露図会第4編 (明治37年4月25日)

この他、葬儀の前に広瀬中佐の亡骸が東京に戻ってきた際には数千人の人が駅で出迎えたとの記事もあり、国中でその死を悼んでいた様子がうかがえます。

明治43年の号に広瀬中佐銅像除幕式の記事と写真が掲載されています。この記事も多くのページを割いて銅像完成の経緯や除幕式の様子を報じており、6年経っても「軍神」として称えられていることが良く分かります。

広瀬中佐銅像除幕式 第409号 (明治43年6月5日)

この銅像は戦後撤去されましたが、それまでは東京観光の定番スポットでした。また、昭和10年には広瀬中佐を祀った広瀬神社が建立されました。

軍神 橘中佐

次にご紹介するのは、陸軍の軍神、橘少佐(戦死後、中佐に階級特進)に関する報道です。日本とロシアの両陸軍が衝突した遼陽の戦いで命を落とし、「軍神」と言われるようになりました。戦場で被弾した姿を描いた図には鬼気迫るものがあります。

橘大隊長戦死の図 征露図会第14編 (明治37年10月15日)

橘少佐は大正天皇の教育係をつとめていた方でしたが、奇しくも戦死されたのは大正天皇の誕生日でした。

次の記事には亡くなったときの言葉が掲載されています。その言葉からも伺えるように、橘中佐は部下思いで、とても慕われていたそうです。そういった人柄も橘中佐が「軍神」として崇められた要因だったのでしょう。

遼陽の大会議○橘大隊長戦死の光景 征露図会第14編 (明治37年10月15日)

次にご紹介するのは、多くの人々に橘中佐の死が悼まれていたことがよくわかる図と説明文です。

 

〈図〉橘中佐の遺骨 征露図会第14編 (明治37年10月15日)

九州鉄道長崎行の一列車に主従四人連の乗客あり一人は年頃三十二三の婦人にして十一二歳位の男の子を傍ふ又其子が「伯父さま」と呼ぶ紳士馬丁らしき従僕とにて婦人は緑の黒髪惜し気もなく根元よりきり払ひたるも包るに膝の上には白絹に包みたる一品をば大切に抱へたるは云はずと知る亡き人の遺骨、車中の人々は従僕に尋ねけるにこれそ陸軍の軍神と呼ばれたる橘中佐がかたみなる事をと聞くとひとしく皆々襟を正し其が白絹の包みをば涙と共に見送りたりと

この後、橘中佐にも銅像建立の話が持ち上がり、大正7年に建立されました。また、広瀬中佐と同じく橘中佐を祀った神社も昭和15年に建立されています。

勇ましき給仕

日露戦争の特集号では、先ほどの図のように横に説明文が載っているものも少なくありません。図と説明文とあわせてご紹介しましょう。

勇ましき給仕 八月十四日、蔚山沖の海戦中吾妻艦の給仕脇田進一郎氏は弾丸運搬の任にありしがみな朝飯前故気をきかして握飯を作り戦闘酣なる勇士に腹がへつては戦い出来ません早く御上りなさいと配り歩かうす敵弾艦長室を貫き其破庁まて打ち倒れしを見て藤井艦長は脇田やうきもなと云うよりムツクト起き上がり大丈夫露助の弾ではでは死にませんと再びビスケツトを配りたりと全艦大に嘆賞せりと

遺児を訓戒する父親

梅原建三の父児童を訓誨するの図 征露図会第2編 (明治37年3月25日)

二等機関兵梅原健蔵氏、名誉の戦死者梅原健蔵氏の実家は大阪府下北河内郡豊野村太秦の庁辺り四條畷なる小楠公の碑を去る一里余の田舎なり 父竹次郎は予て決する所あれは戦死の報逢すれ共顔に少しも悲しむ色なく、皆の者泣くな/\健蔵は神様になつたのだ祝へ/\とて自ら酒盃を揚げ四人の子を膝下に寄せて(阿兄健三は御國の為めに尽して死んだのぢゃお前達は兄さんの名を汚さぬやうしろい) 聞く村人の却って袖を絞らぬ者はなかりしとぞ 父竹次郎(五十二)母はる(四十五)いとえ(十三)きぬ江(十)英三(七ツ)宗雄(三つ)

日清戦争の際の「戦争美談」と比べると日露戦争の際のエピソードはより神格化されています。風俗画報は世間の人々の反応もきちんと報じており、美談を称える動きも世論を巻き込んで大きなものになっていることもわかります。

日露戦争の頃には写真技術が発達し、他の雑誌などでは写真を掲載することが多かったようですが、風俗画報は図と文で報じるというスタイルを最大限に生かし、理想の軍人像やその家族像を世間の人々にイメージづけようとしている印象を受けます。同時期の新聞や他の雑誌などを比べてみると、風俗画報の独自性が際立ってくるのではないでしょうか。

風俗画報の日露戦争の特集号の中には、まだまだご紹介したい記事や図が沢山あります。これらは次の機会にご紹介したいと思います。

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(株式会社ゆまに書房 第一営業部 河上 博)
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