自然科学

Wiley Digital Archives 知られざる医学史と英国王立内科医協会

2019.04.22

Wiley Digital Archivesは、世界各国の有力な学協会・図書館・史料館などと提携し、彼らが所蔵する歴史的に価値の高い一次資料をデジタル化してご提供する電子コレクションです。

今回は、Wiley Digital Archivesの中から、2019年に創立500周年の節目を迎えるRoyal College of Physicians(RCP: 英国王立内科医協会)のアーカイブ、Wiley Digital Archives – Royal College of Physiciansに関し、アーカイブ成立の時代背景をご紹介します。

知られざる医学史と英国王立内科医協会

医学史というのは、きわめて奥深い研究領域です。医学のように人間の歴史の本質に根ざすものの起源を特定するにはどうしたらいいでしょうか。あるいは、医師・外科医・その他医療従事者の起源についてはどうでしょうか。そういった歴史の物語の発端まで遡り、そこから現在までの流れを下るための方法とはどのようなものでしょうか。
今年2019年に創立500周年の節目を迎えるRoyal College of Physicians (RCP:英国王立内科医協会)は、医学の歴史だけでなく近代科学全般とも深く結びついています。イングランドで最も長い歴史を持つ医師会であるRCPは、アーカイブ資料の宝庫として、読者が医学史を研究するための一次資料や、当事者自身の貴重な報告を提供しています。
Wiley Digital Archivesのチームは、現在RCPアーカイブのデジタル化作業を進めています。その過程で、医学史とRCPに関して、多くの人に知られていない興味深い事実が明らかになりました。

1518年まで、イングランドで免許を有する医師は皆無だった

16世紀の医療環境が現在と異なっていたことは、想像に難くありません。しかし、どのように異なっていたかを知れば、驚かざるを得ないでしょう。

規制らしきものがほとんど存在しなかった当時、医療を担っていたのは正式な訓練や知識をもたない“physicians”(内科医)でした。
そのためイングランドでは医療過誤が蔓延し、資格のないニセ医者が未確立の医療行為を試みた結果、多くの人が不必要な死に至りました。

そうした流れを受けて、1518年にイングランド王ヘンリー8世の勅許を得て Royal College of Physiciansが創設されました。その目的は、「本物の」医師とニセ医者を区別すべく、医療資格のある医師に免許を与える一方でニセ医者には罰則を与えることにありました。RCPからフェローの称号を得たのはごく少数で、高い教育を受けたエリートに限られました。

イングランドの刻印が押された、ヘンリー8世によるRCP創設の勅許。1518年。Credit: Royal College of Physicians

医療と社会的序列

16世紀には、医療従事者の中に明確な社会的ヒエラルキーがありました。例えば内科医(physician)は最も高い教育を受けたエリートとされ、外科医(surgeon)や薬剤師(apothecary)に対して優位で支配的な立場にありました。

当時、薬剤師は(現代の薬剤師と同様に)内科医の指導によって薬を処方していました。一方外科医は、徒弟制度の下で習得できる「実践的な」仕事を受け持っていました。必要とされる正式な教育の欠如は、医療の場での外科医の立場の弱さを物語るだけでなく、手法と質の面において一貫性を欠いた訓練に彼らの職業資格を委ねる状況をもたらしていました。

床屋が切断術を行うことが許されていた

16世紀から18世紀にかけて、ロンドンでは床屋と外科医がthe Company of Barber-Surgeonsという同じ床屋外科ギルド(同業組合)に所属していました。美容と外科医療とは技術的に共通すると考えられていたことから、床屋は両面に関わるさまざまな仕事を受け持つことが認められていました。その仕事には、調髪から四肢の切断までが含まれました。

想像がつく通り、このような外科手術によって命を落とす人は、それによって命を救われる人と同じくらい多くいました。それだけでなく、一部のエリート外科医たちは、地位の低い床屋とひとくくりで扱われることを腹立たしく思っていました。そういった「真の」外科医たちは、内科医と同じように地位を認められ、敬意を払われることを願っていました。

にもかかわらず、外科医が床屋外科ギルドから離れて正式な教育基準を確立するようになるには、1745年までかかりました。それによって初めて、外科医は長年のライバルであった内科医と同じ土俵に立つことができました。

男性の額にできた腫れ物を治療する「床屋外科」。Credit: Wellcome Library, London

薬剤師に対する訴訟

内科医は、医療行為に関する独占的な支配を維持しようと懸命に苦闘しました。人口の急増によって免許を持つ医師の不足が生じると、薬剤師は国内の貧しい人々に対して、それまで内科医が担ってきた役割に踏み込むようになりました。

薬剤師と内科医との絶え間ない争いは何世紀も続き、当時人気のあった風刺詩の題材に取り上げられるまでになりました。RCPの会員だったSir Samuel Garthが1699年に出版した作品 The Dispensary (薬局)は、エリート的な「医療の権威」が、上昇期にあった薬剤師の正統性を何とかして貶めようとしたこの時代の精神をとらえています。

18世紀の初め、両者の対立は頂点に達しました。RCPが薬剤師組合the Society of Apothecariesの組合員に対して起こした医療過誤訴訟は、病人に対する治療の提供者の役割と法的地位を明確化する、歴史的に重要なものでした。
このRose裁判 (1701-1704) では最終的に薬剤師側が勝訴し、薬剤師が医師として法的に認知されることになりました。これが今日まで続くgeneral practice(一般診療)の始まりです。

占星術が日常的な医療の一部だった

現代の人々は、雑誌の最後のページを開いて自分の星占いを面白半分に読むでしょう。しかしルネサンス期のヨーロッパでは、占星術が日常的な医療行為の一部となっていました。内科医は、医学的知識と天体に関する注意深い研究とを融合させ、身体の各部分を支配するとされていた星々の図を含む特別な暦をよく持ち歩いていました。

実際に、チューダー朝イングランドの最も謎めいた人物のひとりであるJohn Deeの著作では、挿絵の中で4種類の体液(黄胆汁、黒胆汁、粘液、血液)とさまざまな星座とが関連付けられていました。新しい学問領域の勃興によって占星術が医学から切り離されるのは、18世紀になってからのことでした。

医師Johannes de Kethamの著作Fasciculus medicinae所収の「星座男」の図。1500年にベニスで出版。
Credit: Royal College of Physicians

ウィリアム・ハーヴィ:医師と魔女裁判

内科医ウィリアム・ハーヴィ(William Harvey)は、RCPのフェローの中でも最も有名な人物のひとりです。彼は、血液が心臓によって体内をめぐる血液循環を発見したことと、観察と実験によって「自然の秘密」を理解する経験的手法を唱えたことでよく知られています。彼が1628年に出版した著作De Motu Cordis (心臓の運動について)は、1500年間にわたって受け継がれてきた科学的・医学的常識に反
駁するもので、物議を醸しました。

ハーウィの役割の中であまり知られていないのは、彼の実用的なスキルがいわゆる「魔女」の存在を確かめるために用いられたことです。RCPのフェローはさまざまな公的な案件についてよく助言を求められていたので、国王チャールズ1世が侍医であるハーヴィを訪ねて依頼を伝えたことは驚くには及びません。

1634年のPendle魔女裁判では、女性17人が魔術を用いたとして有罪判決を受けました。それに対して疑いを持ったチャールズ1世は、有罪となった女性のうち4人をロンドンに呼び寄せて、ハーヴィの指導の下、選任された助産婦と外科医に検査を受けさせるよう命じたのです。その結果、ハーヴィは彼女らに「魔女としての身体的な印」があるかどうかを確かめることになりました。ハーヴィは理性と合理性を重んじる人物として知られていたので、彼女たちに対する嫌疑に納得しなかったことは当然といえましょう。

拘束・尋問され刑を受ける魔女。1613年にロンドンで出版。Credit: Wellcome Collection

1909年まで続いた「男の世界」

女性が当初医療分野への参入を認められなかったことは驚くに値しませんが、RCPアーカイブに残された一連の書簡は、彼女たちがそれに屈しなかったことを物語っています。

フェミニスト運動の草分けだった医師エリザベス・ギャレット・アンダーソン(Elizabeth Garrett Anderson)は、1864年、RCPの医師免許LRCP medical diplomaの受験をRCPに申請しました。

「私はApothecaries Hallに医学生として登録されていて、文系の予備試験と医師免許のための専門一次試験に合格しました… 定評ある医学校の著名な教員から、必要な証明書を何でも入手できます…」

アンダーソンの申請は却下されましたが、彼女は引き続き医療に携わり、医学の道を志す女性への教育と養成を支持しました。さらに彼女は、RCPと関連する医学会の講義に出席するため、その後もかなり大胆な形で許可を求めました。

「親愛なるHutchinson様、紅斑性狼瘡についてのあなたの講義を、人目につかない片隅で聞かせていただくことはできないでしょうか。チャリングクロスの善良な方々は、女性の大学院入学を認めています。ですから、Harveian協会が親切心を発揮したとしても、変に思われることはないでしょう。イエスのお返事をいただけないのなら、ご返信いただくには及びません。」(下図)

彼女の粘りにもかかわらず、女性がRCP試験を受けられるよう会則が改正されたのは1909年になってのことで、女性がRCPの正会員として認められるには、そこからさらに16年を要しました。

科学と医学の進化

人の健康について理解するために星図に頼り、外科手術のために床屋の手を借りた時代と比べると、時代が変わったことは疑いありません。その一方で社会や私たちの知的枠組みもまた変化し、そのことが科学の進化に直接的な影響を与えています。

一例を挙げると、今日知られている「科学の専門分野」という概念は、19世紀まで生まれていませんでした。それ以前は、相互に重なり合いながら蓄積されていく知識の大まかな集合があり、あたかも百科事典のように、過去の哲学的概念を受け継ぎつつ新しい概念を付加していました。私たちが今日知っている科学のあり方はそれとほぼ正反対のもので、研究活動の根本にあるのは「真理」として信じられているものに疑いを投げかけ、新しい発見に向かって絶え間なく前進することにほかなりません。

「百科事典」的な志向から専門化された関心領域へというこのような変化にもかかわらず、近代科学が依然として学際的な性質を持つという事実は変わりません。それぞれの分野が進化する過程で、他の分野に何らかの形で言及します。すなわち、新しい着想や手法・概念を他の分野に提供し、それによって永続的な影響を与えます。例えば、19世紀の技術的進歩や、実際の病院や研究施設で臨床試験を行うことを可能にした政府の研究費補助がもしなかったとしたら、人体とさまざまな疾患についての理解は、今でも星図に頼っていたかもしれません。

RCP自体の発展は、歴史的な背景による影響と、より「開かれた」科学コミュニティをめざす変化を反映しています。RCPの会員は、かつてはイングランドのエリート男性医師に限られていたのが、現代は世界各国の多様な医療従事者の集まりへと移り変わりました。それと同時に、RCPは幅広い問題に関する公衆衛生政策に影響力を発揮するようになりました。喫煙に関する1962年の報告から大気汚染の影響に関する2016年の報告まで、RCPは人の健康を、それを取り巻く歴史・社会・環境からの影響と関連付けながら理解し向上させるための方法を示しています。

これからの500年間は、一体どのようなものになるでしょうか。

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(資料提供Wiley)