「多様性(ダイバーシティ)」という言葉はよく使われますし、それを認めないのは「現代の人間としてちょっと偏っている」というふうに受けとめられると思います。とりわけアメリカ合衆国ではそうです。私は専門がアメリカ研究です。アメリカの宗教、特にキリスト教と社会のかかわりについて研究するのが主専攻で、副専攻が高等教育論です。紀伊國屋書店の『教育と研究の未来』サイトでは、基本的に、副専攻の方で連載をさせていただいています。多様性に戻りますが、仮に私が多様性を否定したら、たぶんアメリカ人は私をアメリカから追い出してしまうでしょう。
おそらく日本もそういう感じになってきていると思います。たとえば、今学生たちの前で「現代社会における女性の役割」みたいな話をすると、大方の学生は何の異論も唱えないのですけれども、一部の学生はLGBTの問題を掲げて「男性女性って分け方は問題でしょう」と当然言ってきます。一昔前まではそうではなかったのですが、今はそういう時代なのです。ですから多様性を大いにみなさん認めないといけない。しかし一方で多様性を否定しているケースがあります。それが「私の中のダイバーシティ」です。
この図を見てください。日本の場合、リストラされて自殺する中年男性、つまり40代から60代くらいまでの男性が結構おられます。もしくは自分の会社が倒産して自殺する方もいらっしゃいます。これは世界の中でも多い方です。なぜ仕事が上手くいかなくて自殺するのでしょうか。自殺したくなる気持ちはわかる気がしますが、私には「仕事イコール自分だ」とか、「自分から仕事をとったら何も残らない」いう言い方をする人が非常に多いのが気になります。どう考えても「私は仕事だ」という文章は成立しません。仕事というものは私が選んだものです。自分が選んだものが上手くいかない。それで自殺する。自殺者を決して軽んじているわけではなく、気持ちも分かります。でもそれは選択したものと自分自身を、言ってみればごちゃごちゃにしている状態です。
実は一人の人間として選ぶもの、選択肢はたくさんあるのです。たとえば私の場合ですと、「夫」という社会的、というか家庭内の立場を選んでいます。「父親」という立場も選んでいます。今の時代「男」という立場も選んでいると言ってよいと思います。それから、「誰それの友人」とか、「国籍」もそうですし、「地域社会における役割」、たとえば順番が回ってきてしまう自治体の役員みたいなもの、これも選んでいます。もちろん「宗教」も選んでいます。
つまり私が選んでいるものはたくさんあって、「自分は選択しているんだ」「自分が選択する主体なんだ」ということが自覚できれば、その人の存在はある程度確固たるものになる。そうすると、どれかひとつ駄目だとしても、ほかの選択したものが残っている限り、自分は選択する主体として生き続けていくことができます。もちろん失業すればお金が入らなくなりますから非常に苦しいかもしれませんけれども、そこで「じゃあまた次の仕事を選ぼう」ということに当然なると思うのです。つまり自分の中のダイバーシティのひとつがこういうものだと思います。
でも、もしかしたらそれ以上に私たちが誤って受けとめているのは、私の中の思考とか感情のダイバーシティです。たとえば私は今日のこの研修会をとても楽しみにしておりましたけれども、これがたとえば自治会の中で何かやれということであれば、暑いし行きたくないし病気ってことにしちゃおうかと思うかもしれません。そうすると私の中で、そういう地域の仕事を真面目にやらなければいけないという気持ちと、いや身体が大事で明日は仕事があるから今日は暑いし休んでしまおうみたいな、ふたつが対立するわけです。そういうことが無数に私の思考や感情や、時には感覚の中でダイバーシティとなって渦巻いています。
それにもかかわらず私たちの多くは、「自分は確固たる人間でなければならない」ということで、意志の強い人ですと無理やり意志の力で自分をひとつの決断にまとめてしまおうとする。そういう人に限って、たとえば自分が弱いと考える思考や感情、自分が否定したいと考える思考や感情をもっている人に対して、厳しい対応になります。教員をしているとそういう教員をけっこう見るものです。
たとえば学生が授業に遅刻してくる。確かに授業に遅刻してはいけないのですけれども、実は遅刻にもものすごくたくさんの理由があるわけです。でも、とにかくその理由を問うこともなしにいけないと言ってしまうような状況は、時と場合によっては問題です。学生は学ぶのが仕事なのだから、そのうえ授業なのだから、何が何でも駆けつけなければいけないっていうまあその考えも分かりますけれども、ダイバーシティの立場とは少しかけ離れていると思います。
もうひとつ、価値と価値観という言葉があります。価値と価値観がどう違うかというと、英語で見ると分かり易いと思います。価値観の方はvaluesということで複数形になっています。それに対して価値はvalueで単数形です。つまり価値はひとつだけれども価値観はたくさんあるということだと思います。たとえば真善美という言葉があります。真なるもの善なるもの美なるもの、何が真であり、何が善であり、何を美しいとするかという価値は万人共通のものがもしかしたらあるかもしれません。でも価値観は多様です。
たとえばこのパワーポイントを使った講演も、もし私が「どこから始めましょうか」と尋ねたら、「○○ページのこの画面から始めるのがよい」と考える人もいれば、「いやこういった研修会なんだから、講師が事前に考えたとおり、ちゃんと整然と頭からやるべきだ」という考え方の人もいらっしゃいます。個人的なことを申しますと、研究書を読む時に、私は頭から読み始めることはめったにありません。目次と索引をざっと眺めて、任意の箇所から読み始めます。これはもう価値観の違いだと思います。そうすると、じゃあどうすればこのバラバラの考え方、多様な考え方をひとつにすることができるかという問題になります。何が同じであればやっていけるのかということが分かれば、多様な考え方であってもひとつになるというか、まとまれると思います。
たとえばよく話題になるエピソードがあります。哲学者の加藤尚武が『倫理学の基礎』という放送大学の教科書の中で例示しているタバコの話です。タバコというのは現在すごく身体に悪いものということで、人によっては非常に嫌います。一方で、フロンティア時代、ネイティブ・アメリカンたちの間では煙草は医療品として使われました。当時と今とではまったく価値観が異なります。でもこれほど違う価値観(values)でも、共通の価値(value)は見出せるのではないでしょうか。これについて加藤尚武は、タバコについての事実判断が変化したのであり、価値判断は変化していないと言います。当時においてタバコは健康に良いと考えられていた。だから治療に使用した。今タバコは健康に悪いと考えられている。だから喫煙をやめさせようとする。共通なのは、昔も今も、身体に良いものは摂取し、良くないものは摂取しないということです。そこは変わっていないというわけです。
このようにして共通項を探っていくと、おそらく考え方の違う人たちであっても共通点を見出していくことができるのではないでしょうか。たとえば企業組織で言いますと、おそらく共通点というのは、全員がこの会社を大きな会社にしていく、この会社をこれからの時代にも生き残っていける会社にしていく、そういった希望は共通なので、そこを常に忘れない限り、それまでの議論はたくさんあっても、問題は大きくならないだろうというふうに思うのです。
(玉川学園理事・玉川大学教授 菊池重雄)
※紀伊國屋書店社内研修での菊池先生のご講演(2017年8月9日)から構成