21世紀の我が国における、知の統合の課題については、日本学術会議が2007年に最初に提言した「知が有効に社会に資するために、科学者コミュニティは何をすべきか」という観点から出発する。そこでは、科学者コミュニティはどのように、その知の統合に取り組んでいるのかについて検討を加え、その最終報告書(「提言:社会のための学術としての『知の統合』」2011年)において、知の統合のあり方を提案した。
そこでは、大きく次の3つの観点にまとめられた。(1)認識科学と設計科学の連携の促進、(2)使命達成型科学の研究マネージメントにおける留意点、(3)異分野科学者間の対話の促進、である。この報告書の優秀な点は、科学技術のクライアント(=顧客・発注者/受益者)の中に、国家や産業のみならず、生活者をきちんと位置づけている点にある。そして2011年3月11日の東日本大震災は、その躓きの石になったことは明白である。
しかしながら、OECDではもっともっと早くその対応に対して今度は基礎教育のほうから取り組んできた。1968年に創設された国際バカロレア協会(IB:International Baccalaureate)は、ディプロマプログラムつまり、大学の入学資格の科目に「知の理論(Theory of Knowledge, TOK)」を設けている。この科目の歴史はIBのホームページをみてもよくわからないのだが、すでに1970年には科目名として登場している。現在のヴァージョンは2000年代の最初の10年間の中期にはほぼ原形がでており、かつインターネットにおいて閲覧可能な媒体になっている。IBでは、その科目に先立ち、理想とする学習者を次の10項目で表現している。この項目は、日本の大学の、表面的な理念や美辞麗句が飛び交う数多のアドミッションポリシーよりもはるかにシンプルでわかりやすい。僕はひも解く度にいつもこれに感銘するので再掲したい。つまり、1)探求する人、2)知識のある人、3)考える人、4)コミュニケーションができる人、5)信念をもつ人、6)心を開く人、7)思いやりのある人、8)挑戦する人、9)バランスのとれた人、10)振り返りができる人、である。
大学入学資格であるディプロマプログラムであるために、TOKは大学で学ぶべき課題ではなく、大学入学までの中学・高校までに必要なものを規定していることを忘れてはならない。僕はここに驚くのだ。先の日本学術会議の「知の統合」は、日本の最高レベルでの研究者における科学研究の指針だからである。もちろんOECDの中の有力国として自負する我が政府の文科省は、IBに関する紹介ページを設けている。だが、これを我が国の初等中等教育のグローバルなスタンダードにするような様子はみられず、そのような資質をもつ入学生を受け入れる大学の教養教育ですら、知の理論を積極的に取り組もうとする動きはない。しかしながら、IBのディプロマプログラムの日本語化に関心を持ってくれるところは、日本の予備校関連の出版社と海外版を作成している海外の出版社なのである。またティーチング・ガイドはウェブで、もちろん無料でダウンロードできる。「知の理論」を若い次の世代に伝えたい、この情熱の深さはいったいどのような理由から出てくるのか? 僕の結論はこうだ。知の理論の同義語としてよく使われる「クリティカル思考」への人々の敬意と、それを遺憾なく発揮できるためのソクラテス的対話コミュニケーションへの限りない信頼と、それを実際に使ってみないとその良さは理解できないというプラグマティズムに裏付けられている、と。
さて、知の理論は、ディプロマプログラムのなかでどのような位置を占めるのだろうか。それは知の理論を構成要素の1つのコアに含む、きわめてシンプルだが堅固な教育構造からなりたっている。それは「知の理論」のほかに「創造性・活動・奉仕(Creativity, Action, Service, CAS)」そして「課題論文(Extend Essay, EE)」の2つである。これらの3つのコアはもちろん言うまでもなく必修である。つまり知の理論は、欧米の教養的伝統のトリニティ(三位一体)のひとつの柱なのだ。
そこでBookWeb Proを開いて「知の理論」と検索してみよう。検索順位の下のほうにはちょっと関係のないものがあるが、日本語そして英語、なかには二言語版のテキストやガイドが示される。僕もこの1年間の間に何度かアクセスして注文をしてきたところだ。
さて、こんなことを日本の大学の教養教育の専門家に話そうものなら「そんなものは、君に指摘されなくても、すでに知っているよ」「日本のリベラル・アーツ教育は、そのような知の理論の各所で触れられているさまざまな学問領域のことがより詳細に教えられている」「この程度のものは高校教育までで学習指導要領で示されているはずだから、大学の基礎教養には必要ないよ」などとお小言をいただきそうだ。だが、はたして、そう自信をもって反論できるだろうか?
僕は、現在の職場で大学院生向けの高度教養教育をおこなっている。具体的には、フィールドワーク方法論(「訪問術A」)、ICTをつかった市民がおこなう社会イノベーションの方途(「協働術A」)、世に数多ある他人や他所の集団についての記録(民族誌やルポルタージュ)の批判的読解(「訪問術B」)、そして「ヘルスコミュニケーション」である。それらの科目に、アクティブラーニングの手法を使って教育をしてきた——興味のある方は僕の名前と「科目名」でググってほしい。そこでの僕の結論は、もし、僕のゼミナールに集う学生諸君が、受講の数年前にIBの「知の理論」を勉強していたら、今すぐに社会にでても世界のビジネスパースンや市民運動家と互角に渡り合えるだけの批判力と見識をもてたはずだということである。これは大言壮語でなく、現場での正直な気持ちだ。彼/彼女らはものすごく現実的でありながら、倫理的には教師よりも清廉で、そして社会の改善について心を砕いている。だが、その実践をうらづける「知の理論」に関して適切な概念や用語を見つけられずにいるからだ。つまりIBの「知の理論」は、人間にとって社会でおこっていることを鋭く批判的かつ的確に分析できる普遍的な方法と知恵がぎゅうぎゅうに詰まった宝箱なのである。
これに関連して、ノーベル賞受賞者のさる著名な大学者の講演のなかにおけるあるエピソード——これに類する話は別のところでもよく聞く——を僕はよく思い出す。こういうことだ。日本の著名な学者は自分の専門領域については、超一流の知識をもつ。だから専門分野での質疑応答の場面ではまさに立て板に水のようにスピーディに説明することができる。しかし、その講演後のワインパーティで、欧米の参加者たちが議論する古典や歴史的故事に関するジョークや四方山話になると、全く日本の学者の多くはついていけず、多くの者は聞く側になってしまうと。それは大学をふくめたそれまでの教育課程における骨太の基礎教養の無さなのだと、件の大学者は言う。僕もまったくその通りだと思う。
日本の大学教育および大学院教育は、戦後、欧米に追いつけ追い越せというプレッシャーのなかですすんできた。教養教育はおざなりで高学年になってもフォローアップがない。そのために専門教育のくさび型(つまり教養的知識の提供の逆くさび型)モデルへの改変を講じられた。だが、本来的に、日本では専門家の教養教育へのリスペクトがないために、履修のタイミング云々の問題ではなかったように思われる。そして、悲劇は重なる。1991年の大学設置基準の大綱化により国立大学では教養部の廃止が続き、旧帝大では(教養の疎かな)専門家のプライドをくすぐっただけとしか思えない所属部局の大学院化が同時に起こる。こんな悪弊にかれこれ30年ちかく漬かっているのである。そのような日本の大学教育は、今後も世界ランキングを落としつづけていくことだろう。
しかしながら、それらに少自覚的な僕たちは、押っ取り刀ではあったが10数年前に大学院生向けの共通教育の「コミュニケーションデザイン教育」をはじめた。そして、その数年後に高度教養教育の中にこれらを位置づけて続けてきた。そして1年半前から高度汎用力教育の再定義と展開という課題に取り組んでいる。授業を施行する者としてまたスーパーバイズする者として数々の授業に取り組みまた参観をしてきたが、そのたびに受講者や若いフレッシュな教員の創意工夫に学んできたこと大である。日本に真の意味での高度教養教育を根付かせるためには、「知の理論」をふくめた標準化された教育手法を用いて、情熱をもって受講生に学ぶことの意義を具体的に伝えることに喜びを感じる教員の養成とモチベーションの維持。そして、学生(受講生)からの疑問やコメントを洗練させて教育の現場にリアルタイムで還元できる教育環境が、遅まきながら不可欠なのだ。
紀伊國屋書店のBookWeb Proは、他の大手の商業書店サイトと異なり、ユーザーにガイドするための文献集的な提示をしてくれる点はありがたい。しかし、同時にそれは商業サイトとしてユーザーを購買に向かわせる仕組みであるために、CiNii Booksや WorldCat のような書誌情報提供サイトと同等に扱うわけにはいかない。だが出版文化という言葉があるように、出版物の流通には、それ以外の情報媒体の商品的流通には見られない文化的「余剰」があるようだ。それは、購買行動とは関連づけられながらも、購買とは無関係にその書物にまつわる議論が始まる余地のことである。ここまではいいのだが、しかしそれもまた出版言語に水路づけられた文化の差異を見せつけられる現実に直面する。みんなも知っている外資系の世界最大の書籍サイトにおける、英語の書物のブックレビューと日本語のサイトのそれを比較すれば、その読者の知的教養の差異は一目瞭然である。単に両者のレビュアーの集団の知識の差異だけにとどまらず、読んだ本をレビューするという教育制度や、それはみんなの前で自信をもって発表するという文化的習慣の差異によるのではないかというのが、僕の説明である。レビューとは闇雲に批判することではなく、より高い見識から、時には代替案を提示するくらいの、度量の深さが必要な重要な社会的責務なのである。
このような文化的落差が一朝一夕どころか数年でも埋まるわけではない。そのためには、BookWeb Proにおいても、単に良書を一方的に勧めるという機能のみだけで満足してはならない。登録した自己責任を担えるユーザー(顧客)によるレビューや著者のリプライなどもふくめた仮想的な対話空間の演出というものが必要になってくるだろう。紀伊國屋書店には、そのような僕のようなユートピア的挑戦にどのように応えてくれるのか、いつものようにBookWeb Proを使いつつ愉しみに待つこととしよう。これが僕からのBookWeb Proに対する挑戦状である
(大阪大学 COデザインセンター教授 池田光穂)
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