人文社会系研究

イギリス文学・文化研究の現場から①——研究者インタビュー【連載】

2018.01.11

プロフィール:冨樫 剛(とがし ごう)
1993年愛知県立大学文学部卒業、広島大学大学院および英国サセックス大学大学院を経て、現在フェリス女学院大学文学部教授。アメリカの学術雑誌 Milton Quarterly(Wiley)に掲載された二本の論文にて一定の国際的評価を得る。近著に17世紀英文学会編『17世紀の革命/革命の17世紀』(金星堂、2017年9月、共著)がある。

 

イギリス文学・文化を研究する冨樫剛先生に研究者としての興味のあり方、資料との付き合い方を伺いました。第一回にあたる本編では、いかにして研究者を志したのか、どのような興味を持って研究をしているのかを語って頂きます。

ミュージシャン志望から研究の道へ

――――まず初めに、先生がどんな研究をしているのか、簡単にお聞かせください。

そうですね、16世紀から18世紀までのいわゆる初期近代のイギリスの詩を、政治とか宗教とか、文学以外の領域と関連させて研究しています。ルネサンス・宗教改革・内乱・名誉革命などいろいろな変革があった時代なので。

小さい頃から大河ドラマのような歴史ものが好き、というのがあって、それから中学・高校あたりからロックやR&Bといった英語の音楽を聴くようになって、歌詞を覚えて歌うようになって、というところからいろいろつながっているのかな、と思います。

余談ですけど、はたち頃までは音楽を中心に生活していて、まあ馬鹿な話ですけど、ミュージシャンになるつもりだけど努力はしない、という生活をしていましたが、ある時、人生これじゃダメだと気づいて、それで英語や英語の国のことについてきちんと学んでそれを仕事にしよう、ちゃんと社会人になろう、と悔いあらためた次第です。

――――ご自身でバンドをされていたんですか?

はい。名古屋のライヴハウスで月一で出させてもらっていました。といってもお客はひと桁で、しかも知りあいばかり。無駄に懐かしいですね。外国人相手のバーでもオーディションがわりに一回出させてもらってそれでクビ、とか。幼馴染のメンバーとは、自分たちがどれだけ馬鹿だったか、とか今でもよく話して笑ってます。

正直、十代の頃は仕事について夢のようなことしか考えていなくて、中卒で北海道に行って牧場で働こうとか、高校を出たら石川に行って――――石川なのは「富樫」という地名があるから――――そして出家しようとか、そんな感じでした。受験とか就職とか、まったく興味ない、というかむしろ、人生競争みたいなのが嫌で。

冨樫先生の研究室のギター・コレクション。
数千円の中古品でも音は抜群、詩のリズムの授業などでお使いとのこと。

――――そこから研究・教育の道へ?

そうですね。少なくとも精神的にはだいぶ遠回りしている気がします。大学に入っても、週6で調理場アルバイトという生活をしていました。

で、お尋ねだった今の仕事についてですが、基本的には第二の母校の広大、広島大学の大学院――――学部までは愛知県立大でした――――のスタイルで研究をしていると思います。OED――――Oxford English Dictionary――――を端から端まで見て作品をていねいに読まなくては、という感じです。

今思えば幸運だったと思いますが、広大の院の演習のための準備、たとえば前置詞 “to” の定義と用例を最初から最後まで読むとか、最初は大変でした。でも、結局他の人がしない、したくない、あるいはしたくてもできない、というようなことをするのが専門職だから当然人より努力しないと、と思ってました。

高校の途中まで野球をしていて、中学では主将だったりして、いわゆる「スポ根」的な考えかたをしてた部分もあります。16で野球を投げ出して、はたちで音楽投げ出して、ここで英語を投げたらダメじゃない? みたいな。

虚構だからこその自由

――――大学院では具体的に何を?

広大ではミルトンやシェイクスピアなどの作品に16-17世紀当時の考えかた・価値観などがどのようにあらわれているか、というようなことについて調べたり、考えたりしました。

一応文学が専門ですが、誰のどの作品が好きとか、どの登場人物が好き、というのは全然なくて、学生の頃からずっと、どんな社会のなかでどんな思想や価値観を用いてどんな詩や劇がつくられたか、というようなことを考えてきています。政治とか、犯罪とか、恋愛・結婚とか、どんな人や生きかたが美しい・醜い・正しい・悪い・好ましい・好ましくないとか、そういう主題をいつ誰がどういう理由でどのように扱っているか、というようなことを歴史的に正確に示したい、という。

結局、これは今でもふつうに話題になっているようなことで、そういう、ちょっとゴシップ的な関心の延長で仕事をしている、ということかもしれないですね。でも、これを過去の異国の文学という虚構を題材にして考える、つまり何重にも間接的なかたちで考える、というところが大事かなと思います。誰の利害も気にせず、純粋に学術的で自由な調査・研究・議論ができるので。虚構だからこそ、実生活から遠いからこそ、本当に自由な思考・思想上の実験ができるわけで。

――――どういうことでしょう……?

たとえば、今の日本で誰かが、あるいはどこかの組織や企業などがおこした問題について論じれば、関係する人たちの生活や心情に大なり小なりの影響を与えることになりますよね。誰かが非難されればたぶんその家族・親族の生活も左右されることになってしまう。企業などの場合、関係のない多くの社員の生活に負の影響が及んでしまうかもしれない。

政治・社会的な話題、思想や道徳の問題について考えること自体は重要かもしれませんが、それでいろいろ迷惑や不利益がもたらされるというのは、ちょっと違うんじゃないかな。実学じゃない、現実的でないといって文学研究をけなす風潮がありますけど、現実と乖離しているからこそ社会的に微妙な、重要な問題を自由に扱えるわけで、そういう価値が文学研究にあると思います。

別のいいかたをすれば、文学研究、というか歴史・哲学なども含めた人文系の学術研究全般の存在意義は、たぶん勝敗のあるスポーツのそれに近いかな、と思っています。スポーツには、闘争心・攻撃性・勝利への欲求・自尊心、のようなものを健全に、そして社会的に安全なかたちで発散する役割がありますよね。五輪とかいろんなワールド・カップとか。同じように人文系の学術研究では、正義や真理のようなものへの欲求や願望を間接的に、社会や人間関係にとって安全なかたちで、ある程度満たすことができるんじゃないでしょうか。(続編に続く)

 

はたち頃までミュージシャンを志していたという冨樫先生

インタビュー実施日、場所:2017年6月14日 フェリス女学院大学
聞き手:紀伊國屋書店

 

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