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【洋古書】コリャード《羅西日辞書・日本文典》初版1632年

キリスト教弾圧の時代、ドミニコ会宣教師が著した日本語辞典と文法書。稀覯。

関連ワード:イエズス会 キリシタン ドミニコ会 古書 宣教 布教 日本語 江戸時代 洋書 近代初期日本  更新日:2024.10.04

紀伊國屋書店在庫の稀覯書から、1632年刊行の宣教師コリャードによる日本語文法書とラテン語=スペイン語=日本語辞典をご紹介します。ドミニコ会士コリャードはキリシタン弾圧が厳しくなる中、1619年から1622年の3年間を日本に滞在、ローマに帰ったのち教皇庁の布教聖省印刷局からこれらの書物を刊行しています。

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—以下、「紀伊國屋書店 古書目録 2020」より—

コリャード《羅西日辞書・日本文典》初版
COLLADO, Diego.  Dictionarivm sive thesavri lingvæ iaponicæ compendivm.  Romæ, typis & impensis Sacr[ae] Congr[egationis] de Prop[aganda] Fide, 1632.
[Bound with:]
Ars grammaticae iaponicae lingvae.  Romæ, typis & impensis Sac[rae] Congr[egationis] de Propag[anda] Fide, 1632.

¥9,900,000(税込)

4to, two works bound in one (the Dictionary in two parts); pp. 158, (2) blank; [161]-355 Additiones ad Dictionarium, (1) blank; 75, (1) blank, woodcut printer’s device to the title-page of each work, mild browning throughout, occasional light foxing, a couple of tiny wormholes to the margin of the initial work; bound in English calf of the late seventeenth-century, covers panelled in blind, rebacked, lightly rubbed, corners worn; from the library at Shirburn Castle with its blind stamp to the title-page of the Dictionary.  Palau 57567 & 57563; Pagès 221 & 220; Cordier BJ 325; Alt-Japan-Katalog 361 & 360; Laures 56 & 54.

キリシタンによる近世初期日本語研究の掉尾を飾る大著。1619年から三年間日本に滞在したドミニコ会宣教師の手になる、稀覯な日本語辞書と日本語文法との合綴本です。

ザヴィエル以来の日本布教は宣教用の日本語文献を生み出すと同時に、宣教師の日本語に関する知識の蓄積をも促しました。イエズス会の手で日本に持ち込まれた活版印刷機による出版物、すなわちキリシタン版はこれら二つの成果を具現化したものといってよいでしょう。後者に関する刊本としては1594年のアルヴァレスによる天草版文典をはじめ、羅葡日対訳辞書 (1595)・日葡辞書 (1603-4) といった優れた辞典やロドリゲスの日本文典 (1604-8) をあげることができます。1620年マカオで上梓されたロドリゲスの小文典や、マニラで刊行された日葡辞書のスペイン語訳 (1630) もこの一群に含めてよいでしょう。これらは国字本キリシタン版とあわせて、十六世紀末の日本語資料として極めて重要な存在となっています。

コリャードの辞書と文典は、イエズス会による一連の業績に多くを依拠する一方で、さらに独自の日本語理解を加えた労作です。著者ディエゴ・コリャードはスペインのドミニコ会士。1589年頃ポルトガルと国境を接するエストレマドゥラのミアハーダスの生まれといわれます。1605年誓願を立てたのち東方への布教を志し、アロンソ・ナバレテの宣教団に加わって1611年マニラに到着。ミンダナオで宣教活動に携わっていた彼は1619年日本に派遣され、七月末長崎に着任しました。目覚しい速さで日本語を習得したことは半年後オルファネールが書簡の中で証言しています。コリャードの布教活動は長崎・有馬・大村に限られたものの、その傍らオルファネールの『日本教会史』執筆に協力し(マニラに現存するその稿本は大半がコリャードの筆跡になるとされます)、さらに1621年には管区長代理に任ぜられました。翌年には1597年長崎大殉教の犠牲者に対する列聖・列福のための調査を教皇から委ねられ、これが完了すると1622年十一月日本を離れ、マニラを経由してローマに向かいました。

ヴァティカンでのコリャードは1622年一月に創設されたばかりの布教聖省を舞台に、イエズス会の日本布教に対する激しい批判を展開しました。ポルトガルとスペイン、あるいはイエズス会とドミニコ会という対立の構図が根底にあったのも事実ですが、日本の教会統治に対するコリャードの見解は、世界各地の布教を一元的に管理すべき布教聖省の賛同を得ています。1632年に布教聖省印刷局から彼の日本語研究が刊行されたのも、布教聖省のコリャードに対する信頼と好意の証左と見ることができるでしょう。

1626年設立の印刷局が刊行した布教用の文献には、「主の祈り」など典礼文・教義の各国語訳のほか、ラテン語で書かれた諸言語の文法・辞書が重要な部分を占めており、アブラハム・エッケレンシスの袖珍本シリア語文法(1628年)を皮切りに、マリアヌス・ヴィクトリウスのエチオピア語文法(1630年)、オビチーニのアラビア語文法(1631年)などが上梓されました。これらはいずれも小型の版型による出版で、四折版はマレー語辞典 (David Haex, Dictionarium malaico-latinum et latino-malaicum, 1631) が最初のものか。合計三百五十余頁に及ぶコリャードの辞書は、布教聖省印刷局の刊本としてはかつてない規模のものだったといってよいでしょう。同じ四折版の文典のほかにも、日本語文例集として『懺悔録』も同時に刊行され、これらは三部作とも見做されます。

コリャードの羅西日辞書は本編と補遺 (Praetermissa)、さらに続編 (Additiones) の三部から成ります。彼自身の手になる西日辞書稿本がヴァティカンに残され、これは本編の部分に概ね該当。続編はアンブロジオ・カレピーノのラテン語辞典の見出し語を列挙し、それにスペイン語と日本語の訳語を排列したもの。これはラテン語からそれに対応する日本語の語彙を検索するために加えられたと考えられます。三つの部分はそれぞれ複雑な成立過程を経ていますが、いずれも他著からの単純な引き写しなどではなく、多くの日本語文献を参照しながら独自の編纂が成されたものです。

日本文典は四折版三十八葉、七十五頁。コリャードはロドリゲスの日本大文典に基づきながら、より明瞭で簡潔な記述を目指すとともに、宣教師が実際に日本語を使用する場面を想定し、口語表現を豊富に取り入れています。また日本語の構造を意味論的に理解している点はコリャードの特徴としてあげられましょう。

これらの著書の中でコリャードが、彼以前には無視されていた日本語の鼻濁音やアクセントをも表記しているのは注目に値します。もとより「宣教師が会話をするための教本」という意図のもとになされた表記である以上、これが当時の日本人の発音を忠実に再現したものと直ちにみなすことはできないものの、今後の研究によってコリャードの辞書・文典から新たな発見がなされる可能性は十分に考えられるでしょう。

かつてはコリャードの貢献に対し不当に低い評価しか与えられていませんでした。イエズス会の日本語研究に材料を負うことは「剽窃」と見做され、わずか三年の滞在で彼がどれほど日本語を知り得たのか疑問視されたことも少なくありません。しかし実証的な研究はむしろコリャードが高い言語能力と強い記憶力の持ち主だったことを明らかにしています。独力でイエズス会の業績に比肩する日本語研究を目指した、その志もまた瞠目すべきものです。

製本は十七世紀後半、英国でなされたものと思われます。背に補修。本文用紙に軽微な変色はありますが保存状態は良好。

(学術洋書部)