人文社会系研究

ジャパンアドバタイザー:戦前の極東情勢を伝える第一級の英字新聞

2019.09.05

ジャーナリストたちが伝える極東情勢

ジャパンアドバタイザーは、1890年にアメリカ人の R. メイクルジョンが横浜で創刊した英字新聞です。
同国出身のフライシャー親子がその中核を担った20世紀後半には、極東に拠点をもつアメリカ人ジャーナリストの豊富なネットワークを活かし、「極東一」のクオリティペーパーを誇りました。
ジャパンタイムズ社が2019年から提供を開始した『ジャパンアドバタイザー』は、これらの記事を電子化し、全文検索、紙面イメージの閲覧を可能にするデータベースです。
『The Japan Times Archives(1897-2018)』と同一インターフェイスでご利用いただけます。

ジャパンアドバタイザー

  • 収録期間:1913年10月1日~1940年11月9日
  • 収録内容:全72,657ページ、日刊紙。国内外の政治・経済報道、日本国内のイベント情報、在日外国人向け生活情報、映画・音楽・スポーツ・ファッション等の文化記事
  • 認証方式:IPアドレス認証
  • ご契約形態:買い切り型です。個別にお見積り申し上げます。
    1. 『The Japan Times Archives(1897-2018)』にオプションとして追加購入
    2. 単独購入
  • 販売元:株式会社ジャパンタイムズ
  • ウェブサイト: http://jtimes.jp/archives
    ※本商品は図書館・学校・研究機関・企業などの法人向けです。

ジャパンアドバタイザーで活躍したジャーナリストたち

1913年にジャパンアドバタイザーの社主となった B.W. フライシャー(1870-1946)は、アメリカにおける人脈を駆使し、スタッフの強化を図りました。やがてジャパンアドバタイザーには、国際ジャーナリストの卵や、一流の欧米ジャーナリストが集うようになります。

ジャパンアドバタイザーに集ったジャーナリストたち

①Wilfred Fleisher (左 / Wilfred Fleisher Collection, American Heritage Center, University of Wyoming)
②Burton Crane (中央)
③Donald Beckman Brown (右 / 陸奥祥子氏蔵)

  • ウィルフレッド・フライシャー (Wilfrid Fleisher) 1897-1976 (写真①)
    B.W.フライシャーの息子。ジャパンアドバタイザー編集長に加えて、ニューヨークヘラルドトリビューンの東京特派員も兼ねる。著書に『太平洋戦争へ至る道』(訳本は2006年刀水書房より)。
  • ヒュー・バイアス (Hugh Byas) 1875-1945
    スコットランド出身のジャーナリスト。1926年から41年までロンドンのタイムズに、1929年から41年までニューヨークタイムズに東京の記事を寄稿。ジャパンアドバタイザーでは約10年間論説委員を務めた。米国帰国後の著書に『敵国日本』『昭和帝国の暗殺政治』がある。ともに訳本は刀水書房より2001年、2004年に刊行。
  • バートン・クレーン (Burton Crane) 1901-1963 (写真②)
    昭和初期の日本で『酒がのみたい』(1931年)などをヒットさせた、日本語で歌う外国人歌手の先駆者。戦前戦後を通じて活躍した、経済に強い知日派のジャーナリスト。ジャパンアドバタイザーではコラム「A Sangoʼ Six pence」を担当。米国大使夫人の私設秘書であった妻のエスターは、ジャパンアドバタイザーの社交欄記者としても活躍。
  • ドン・ブラウン (Donald Beckman Brown) 1905-1980 (写真③)
    1930年から40年まで、ジャパンアドバタイザーで記者として活躍。米国帰国後には戦時情報局(OWI)にて対日プロパガンダに従事。戦後はGHQ の情報課長として再来日し、様々なメディアの「民主化政策」に携わった。
  • ジョセフ・ニューマン (Joseph Newman) 1912-1995
    ニューヨークの通信社で働いたあと1937年に来日。ジャパンアドバタイザー記者を経て、1940年秋から日米開戦直前の41年10月の離日まで、ニューヨークヘラルドトリビューン東京特派員。帰国後、約4年間にわたる取材経験に基づいた日本分析『グッバイ・ジャパン』を1942年に刊行。
  • ミズーリ閥(ミズーリ大学新聞学科卒)のジャーナリスト集団
    グレン・バブ、J.モリスハリス、デューク N.パリー、ヴォーン・ブライアント (Glenn Babb, J. Morris Harris,Duke N. Parry, Vaughn Bryant)
    米国の権威あるスクール・オブ・ジャーナリズムで学んだミズーリ大学の卒業生たちは、一つのキャリアパスとして東アジアの英字新聞で働くことを選んだ。ジャパンアドバタイザーにもグレン・バブ、J.モリス・ハリス、デューク N.パリー、ヴォーン・ブライアントなどが集い、中国で活動する同窓生とのネットワークに基づき、新聞製作に影響力をもった。1933年に同紙はミズーリ大学新聞賞を受賞している。

ジャパンアドバタイザーとジャパンタイムズの比較

日本の外務省の影響下にあったジャパンタイムズに対して、ジャパンアドバタイザーは日本の外交、とりわけアジア大陸への進出をアメリカがどう見ていたかを知るうえで、極めて重要なメディアです。ここでは、当時のいくつかの事件を取り上げ、ジャパンアドバタイザーとジャパンタイムズの報道記事を比較します。

シベリア出兵(1918-1922)

ジャパンアドバタイザーは、論説委員のフランクH・キング(のちにAPロンドン特派員)をウラジオストクに派遣(❶)。彼が書いた詳細な現地レポートを写真付きで掲載しました(❷)

(左:1919年7月31日付(1面)/ 右:1918年9月14日付(1面))

韓国の「3.1独立運動」(1919)

1919年3月1日に京城(現ソウル)で始まった「3・1独立運動」。ジャパンタイムズに比べてジャパンアドバタイザーは、現地警官がデモに参加した学生を捕らえる生々しい写真で大きく報道しました。

左:ジャパンアドバタイザー 1919年3月5日付(1面)/ 右:ジャパンタイムズ&メイル 1919年3月5日付(1面)

張作霖爆殺事件(1928)

1928年6月4日に起きたこの事件の翌5日には、〝Japanese, Blamed for Mukden Bomb Plot, Ordered to Seek Safety in Railway zone; Wu Reported Dead and Chang Badly Hurt〟(聯合、電通、東京朝日からのニュースと、記者フランクH、フェッジズによる記事)と、一面で大きく報道します。さらに、社説として〝Japanʼs Diplomacy in China〟を、翌6日にも社説〝Hazards in Manchuria〟を掲載し、日本の満洲進出を警戒。一方のジャパンタイムズが社説〝The Future in Manchuria〟を発表したのは、ジャパンアドバタイザーより2日遅れの7日のことでした。「情報戦」における、ジャパンアドバタイザーの優位がここで確認できます。

1928年6月5日付(1面)

「百人斬り競争」事件(1937)

日中戦争初期、陥落直前の南京で、陸軍少尉野田毅と向井敏明少尉が「どちらが先に中国人を百人斬るか」を競ったとされる「百人斬り競争」事件。東京日日新聞が報道し、戦後は日本の戦争責任を問う資料ともなりました。ジャパンアドバタイザーにも、情報源を東京日日新聞に求めた記事〝Contest to Kill First 100 Chinese With Sword Extended When Both Fighter s Exceed Mark〟が掲載されています。国内外の欧米人読者には、日本軍の残虐性を象徴する事件として読まれた可能性があります。言論統制下における、婉曲的な日本批判とも推測できます。(※同日付ジャパンタイムズでも報道)

1937年12月14日付(4面)

(執筆・構成:松永智子/東京経済大学)

『ジャパンアドバタイザー』は、当時の欧米人の日本認識へ大きく影響を与えました。関わった多くの欧米ジャーナリストの視点から、日本を捉え直すための貴重な資料です。

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『幕末期のジャパンタイムズ』上智大学 鈴木雄雅教授インタビュー

慶応年間の英字新聞「幕末期のジャパンタイムズ」(1865-1866)デジタル版がリリース

ジャパンタイムズ創刊120周年記念企画展によせて

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