自然科学

欧米一次資料に見る<19世紀科学技術> 第1集

2020.08.12

世界有数の図書館、公文書館等が所蔵する19世紀の貴重な資料から史料的価値の高いものをデジタル化して提供するデータベース、Nineteenth Century Collections Online (NCCO)。今回は、”Science, Technology, and Medicine PartⅠ”を取り上げます。

19世紀の科学の生成の現場に誘う資料群

19世紀は、科学の研究と発見の歴史の中で、最も活力と創造性に溢れた時代です。科学と技術と医学に関する知識が飛躍的に拡大し、ニュートン的世界からアインシュタイン的世界へ、馬車による移動から自動車による移動へ、体液と瀉血による治療から消毒と疫学による治療へと、科学の各分野で革命的な変化が起きました。

本アーカイブは、電気、電磁気から、数学、工学、天文学、天体物理学、色彩理論、自然選択論、地質学、鉱物学、化学、医学まで、19世紀に大きく発展した広い範囲の科学領域を取り上げ、重要な雑誌、書籍、報告書、書簡等を精選収録します。

また、この時代、多くの探検家が南北アメリカ、アジア、アフリカ、オーストラリア、北極、南極の地に足を踏み入れました。近代初頭より続いた探検の時代の最後を飾る19世紀の探検の記録を多数収録します。

19世紀の科学上の発見を一望

様々な科学の分野で革新的な発見がなされた結果、人間や宇宙に対する見方が転換し、社会を根本的に変容させる技術革新が起こります。

ダーウィンの進化論、メンデルの遺伝学、パスツールの種痘研究、メンデレーエフの元素周期表、トマス・エジソンやニコラ・テスラによる電気に関わる発明、様々な発明家による蒸気機関と内燃機関の改良、アルフレッド・ノーベルとサミュエル・コルトによる武器・爆薬の発明、アレキサンダー・フォン・フンボルトやオーデュボンらナテュラリストによる貢献、夜空の見方を変えたキャロライン・ハーシェルとウィリアム・ハギンズの天体と宇宙に関する発見、マリー・キュリーとウィリアム・ラムゼイによる化学元素の発見、ジョン・スノーによる疫学の解明、ジョゼフ・リスターの消毒法の開発、ガウスとワイエルシュトラースによる数学の革新、現代物理学の基礎を築いたファラデーとマクスウェルの業績など、数え上げれば枚挙にいとまがありません。本アーカイブは19世紀の科学上の発見を一望の下に収めます。

学術情報流通と科学技術の原点に迫る

学問の専門分化が進行するにつれ、近代的な学術情報の流通や、研究と教育、科学と技術の融合が始まります。学会による学術雑誌の発行が始まり、近代的な大学制度の下、研究と教育が一体化し、標準的な知識を伝達するための教科書が多数発行されます。大学で生み出された知識は産業界で応用されるようになり、それまで異なるものとされてきた科学と技術が、科学技術として密接な関わりを持ち始めます。本アーカイブは、19世紀に刊行された雑誌や教科書を収録し、現代の学術情報流通、大学教育制度、科学技術の原点に迫ります。

ハンティントン図書館など、科学技術史における著名機関の所蔵資料

本アーカイブに収録された資料の多くは、アメリカのハンティントン図書館の所蔵資料です。科学技術史における第一級の図書館として名声を博してきた同図書館は、近年、4万7千冊以上を擁し、科学技術史の蔵書では世界最大級のコレクションを誇るバーンディ・ライブラリー(Burndy Library)を購入、科学技術史関係コレクションとしての水準は、質量ともに最高となりました。その他、米国議会図書館、ドレクセル大学附属自然科学アカデミーなど、科学技術史における第一級の機関の所蔵資料を収録します。

収録コレクション

Academy of Natural Sciences of Philadelphia: Minutes and Correspondence
(フィラデルフィア自然科学アカデミー 議事録と書簡)

  • 年代:1812年-1924年
  • 言語:英語
  • 原本所蔵機関:ドレクセル大学自然科学アカデミー
  • 収録資料:手稿142点(議事録、書簡など)

フィラデルフィア自然科学アカデミー(現在のドレクセル大学自然科学アカデミー)は、科学と有用な知識の振興を目的として1812年に設立された米国最古の自然科学の研究機関です。西部の探検のオーガナイザーとしても活動しており、探検家が持ち帰り、アカデミーで研究、標本化された動植物の新種は、現在1,800万に達する膨大な標本コレクションの基礎を築きました。本アカデミーは、スミソニアン学術協会と並んで新興国アメリカの科学研究を牽引し、20世紀に世界をリードするに至るアメリカの科学研究の素地を作りあげました。

本コレクションは、1812年のアカデミー創立から1924年までの100年以上に亘る、科学アカデミーの会議録、書簡、所蔵資料の概要を説明した資料、会員リスト、科学アカデミーへの寄付の記録原簿を収録します。

書簡については、1817年から1840年まで自然科学アカデミーの理事長を務めたウィリアム・マクルア(William Maclure)ら、19世紀アメリカ科学界を代表する人物の書簡が収録されています。会議録は、科学アカデミーの運営、寄付などを通じて所蔵コレクションを拡大していったプロセス、最初の女性メンバーであるルーシー・セイ(Lucy Say)が選出された経緯、博物誌の研究を目指す貧しい人々や女性のためのオーガスタス・ジェソップ奨学金の創設など、19世紀アメリカの自然科学をリードした自然科学アカデミーの足跡を記録します。また、ダーウィンらアメリカ内外の科学者の書簡は、当時の科学コミュニケーションの実態を明らかにし、19世紀の偉大な科学上の発見に関する興味深いエピソードを提供します。

1860年3月 ダーウィンからの手紙

American Medical Periodicals(アメリカの医学雑誌)

  • 年代:1797年-1900年
  • 言語:英語
  • 原本所蔵機関:米国国立衛生研究所附属国立医学図書館
  • 収録資料:定期刊行物206誌

本コレクションは、世界最大の医学図書館、アメリカ医学図書館を原本所蔵機関とし、19世紀アメリカ医学史全体を視野に収める重要な定期刊行物200誌以上を収録します。感染理論の進化、医学倫理の変化、医学の専門化の深化、医学協会や医学教育の発展など、19世紀アメリカ医学界が関わったすべての領域に光を当て、非正統的医学や歯科や薬学などの周辺領域もとりあげます。

1797年創刊、1824年まで刊行されたアメリカ最初の医学雑誌『メディカル・リポジトリー(Medical Repository)』は、1803年の論説欄で自誌の出版を「医学出版の革命」と称しましたが、その後、医学誌は次第に医学情報を伝達する不可欠の手段となります。1850年までに200誌以上の医学誌が創刊され、その後も医学誌は増加の一途を辿りました。

『アメリカ医学会紀要(Transactions of the American Medical Association)』(1848-1882)は医学会の年次総会の議事録を刊行したもので、1883年に『アメリカ医学会誌(Journal of the American Medical Association )』が創刊されるまでアメリカ医学界の広報的な役割を担いました。

本コレクションは重要な医学誌の歴史を辿るのにも有益です。『Boston Medical Intelligencer』(1823-1828)と『New England Journal of Medicine and Surgery』(1812-1826)は、1828年に統合され、『New England Journal of Medicine』の前身ともなった19世紀アメリカ医学界最高の雑誌、『Boston Medical and Surgical Journal』となります。上述の雑誌名が示す通り、19世紀アメリカの医学出版は北部の都市を拠点としていました。特にニューヨークとフィラデルフィアの占める比率が高く、本コレクションにはニューヨークで発行された雑誌約50誌とフィラデルフィアで発行された雑誌約40誌が収められています。

しかし、最大規模の発行部数を誇った全国規模の医学誌を参照するだけでは、19世紀アメリカ医学史の重要な側面を見失いかねません。本コレクション収録の雑誌の中で、一定の期間刊行が続けられ、全国規模で発信していた雑誌はむしろ少数派で、地域誌の性格を持っていたものや短命のものが多く収録されます。その中には、『Southern Medical and Surgical Journal』(1836-1867)や短命の『Carolina Journal of Medicine, Science, and Agriculture』(1825)など、南部で発行された医学誌も含まれます。これらの雑誌には、奴隷の治療など南部固有の問題が取り上げられています。その他、ジェンダー等の社会的規範、農業医療、治療薬市場の地域的相違といった地域に特化した問題を記録する記事も多数記録されています。名物医者のエピソードや地域の関心を集めた話題など、地域をベースに発行された雑誌ならではの情報が盛り込まれており、19世紀アメリカ医学史の様々な側面を見ることができます。

本コレクションの収録雑誌が取り上げる領域は、医学史のみならず、結婚観や子どもの養育観の変化、アメリカ文化における減量と運動の重要性の高まり、治療薬市場改革の初期の試みなど、社会史の領域にまで及びます。

Astronomy and Astrophysics(天文学と天体物理学)

  • 年代:1779年-1936年
  • 言語:英語
  • 原本所蔵機関:ハンティントン図書館
  • 収録資料:書籍697タイトル

18世紀が星の分類と星の位置の測定において大きな進歩を遂げた時代であるとすれば、19世紀は天体観測の機器の性能が飛躍的に向上した時代です。天文学は観測機器なしに成立せず、天文学の発展は、必然的に技術の進歩に左右されます。

屈折望遠鏡など、19世紀における望遠鏡の性能の向上についての記述は、ヨーゼフ・フォン・フラウンホーファー(Joseph von Fraunhofer),アルヴァン・クラーク(Alvan Clark), ジョン・ブラシアー(John Brashear)らの著作に見ることができます。アメリカの天文学者、デヴィッド・リッテンハウス(David Rittenhouse)の回折格子、ジョージ・ウィリス・リッチ―(George Willis Ritchey)の天体写真術など、夜空や太陽を観測する技術が向上したのも19世紀です。

アンリ兄弟の天体写真用望遠鏡(ヤング『一般天文学教程』所収)

太陽の研究は、ジョージ・ヘイル(George Ellery Hale)、リチャード・キャリントン(Richard Carrington)、グスタフ・キルヒホーフ(Gustav Kirchhoff)らにより、大きく進みますが、特に、ヘイルは初めて太陽活動周期と黒点の活動の周期的変化を物理的に基礎づけ、光の単一波長で太陽の写真画像を把捉する分光太陽写真儀、裸眼で太陽光の単一波長を見ることを可能にするヘリオスコープを発明しました。

天文学者の中には、愛好家や学生向けに啓蒙的な著作を書いた人もいました。エリアフ・バーリット(Elijah Burritt)の『天空の地理(The Geography of the Heavens )』、トーマス・ディック(Thomas Dick)の『星空(The Sidereal Heavens )』、サイモン・ニューカム(Simon Newcomb)の『万人の天文学(Popular Astronomy)』などの啓蒙書は、天文学を大衆レベルにまで普及させました。

女性天文学者の活躍も目立ちます。彗星を発見したドイツ系イギリス人のキャロライン・ハーシェル(Caroline Herschel)は、1789年ロイヤル・ソサイエティから初版が刊行された恒星目録を改訂し続けました。ハーバード大学のアニー・ジャンプ・キャノン(Annie Jump Cannon)が編み出した分類法は、この時代の恒星分類に大きく寄与しました。ハナ・メアリー・ブーヴィエ(Hannah Mary Bouvier)の『Familiar Astronomy 』, メアリー・ウォード(Mary Ward)の『Telescope Teachings』, アグネス・クラーク(Agnes M. Clerke)の『A Popular History of Astronomy in the Nineteenth Century』, アラベラ・バックリー(Arabella Buckley)の『Through Magic Glasses』など、女性作家による科学啓蒙書も多くの読者を獲得しました。

天体物理学は、スコットランドの理論物理学者、ジェームズ・マクスウェル(James Clerk Maxwell)により基礎が固められ、19世紀後半以降、大きく発展しました。マクスウェルの天体物理学、とりわけ電磁場の研究は20世紀の物理学に大きな影響を及ぼし、ニュートンやアインシュタインにも匹敵する業績と見做されています。この分野の研究者としては、『物質とエネルギーの基本性質(The Essential Nature of Matter and Energy)』のエドウィー・ハンド(Edwy Hand)、『天体物理学の諸問題(Problems in Astrophysics)』のアグネス・クラーク(Agnes Clerke)、分光学を精力的に研究し、天体物理学の様々な主題で多くの著作を残したウィリアム・ハギンズ(William Huggins)らがいます。ジョージ・ヘイルがジェームズ・キーラ―(James Edward Keeler)とともに1895年に創刊した『天体物理学誌(Astrophysical Journal)』は、今日この分野でのコアジャーナルと見做されています。

19世紀における天文学の出版事情は、最先端の科学技術はもとより、政治力、財政力でも卓越していた研究機関によって支えられていました。1839年創立、世界最大の望遠鏡を有するハーバード大学天文台(Harvard College Observatory)は、1855年に機関誌『ハーバード大学天文台年報(Annals of the Astronomical Observatory of Harvard College)』を創刊しました。その他、天文学の雑誌は、世界最大の屈折望遠鏡を有していたリック天文台(Lick Observatory)、近代天体物理学生誕の地と言われるヤーキス天文台(Yerkes Observatory)、マウント・ウィルソン天文台(Mount Wilson Observatory)によっても刊行されました。

ハーバード大学天文台
(ダニエル・ベーカー著『ハーバード天文台の歴史』所収の図版)

Civil Engineering(土木工学)

  • 年代:1782年-1934年
  • 言語:英語
  • 原本所蔵機関:ハンティントン図書館
  • 収録資料:書籍601タイトル

軍事以外の工学全般の専門家を指す「土木技師(civil engineer)」という言葉がはじめて英語の文献に登場したのは18世紀後半です。土木工学関連の文献はそれ以前にもみられ、17世紀以降、設計者が顧客向けに作成した、道路、運河、鉄道などの建設物に関する報告書が大量に出されました。これらの報告書は土木技術を継承する唯一の媒体として活用されていましたが、専門雑誌が創刊されると、その必要性は弱まり、橋梁に代表される大規模な建設物においてのみ使われるようになります。カルヴィン・ウッドウォード(Calvin Woodward)の『セントルイス橋の歴史(History of the St. Louis Bridge)』やウィルホム・ウェストホーフェン(Wilhom Westhofen)の『Forth Railway Bridge』がそれにあたります。

教科書の出版は、当該分野の知識体系が確立し、学術書市場が一定の規模に達していることが前提となりますが、土木工学分野における学術書・教科書出版が軌道に乗るのは19世紀半ば以降です。当初これらの学術書では設計が中心に取り上げられ、構造面に関しては、ロバート・バウ(Robert H. Bow)の『ブレーシング論(Treatise on Bracing)』に代表されるように、実務家により作成されました。その後、学者の手による学生向けの教科書も刊行されるようになります。英語圏における土木分野の教科書は、デニス・マハン(Dennis H. Mahan)著、米国陸軍士官学校用に書かれた『初等土木工学(Elementary Course of Civil Engineering)』に始まりますが、これらの教科書は、ジョン・ウィール(John Weale)など、国の助成を受けた専門出版社によって出版されました。

マーシャル・カークマン著『鉄道の科学』(1904)所収の図版
左上:二輪掘削機 右上:ガソリンとポンプの複合装置

左下:蒸気式ショベルカー 右下:線路保線作業のための手動車

王立陸軍士官学校のピーター・バーローがその著書で鉄のデータを収録して以降、種々の素材データが書籍の中に盛り込まれるようになり、データ計算のための様々な方法が編み出されます。オーガスタス・デュボイス(Augustus Du Bois)『骨組構造物におけるひずみ(The Strains in Framed Structures)』に代表される19世紀後半の教科書には、この種の主題が共通して取り上げられています。ロンドンの土木技師協会が過去の技師を顕彰するために伝記出版を後援したこともあり、19世紀には土木技師の伝記が多数出版されました。『自助論』で有名なサミュエル・スマイルズの『技術者たちの生涯(Lives of the Engineers)』は、その後の技術者伝の嚆矢となりました。

アメリカでは、1852年にアメリカ土木技師協会が創設され、運河建設の専門家、ウィリアム・バー(William Burr)による著作や、アメリカ西部の大規模土木プロジェクトに関する著作など、会員による著作が出回るようになります。

各国で開催された万国博覧会は、技術者や科学者の関心を集め、開催期間中に開かれた国際会議などにより、技術者や科学者の国際交流が深まりました。スエズ運河やパナマ運河のような国家規模のプロジェクトでは、政府が国境を超えて、様々な国の専門家に助言を求めるようになります。

ジョン・ワデル著『橋の工学』(1915)所収の写真
左上:日光の将軍橋 右上:カンチレバー方式で架けられた日本の単純トラス橋

左下:セーヌ川のオーステルリッツ橋 右下:シカゴの跳ね橋
ワデルは明治政府から招聘されたお雇い外国人で、東京大学で講じた

Color Theory and Practice(色彩理論と応用)

  • 年代:1780年-1925年
  • 言語:英語
  • 原本所蔵機関:ハンティントン図書館
  • 収録資料:書籍291タイトル

ヘルマン・グラスマン(Hermann Grassmann)は、ヘルマン・ヘルムホルツ(Hermann Helmholtz)が減法混色と加法混色を区別したことにインスピレーションを受け、色の第三の要素、彩度を見出しました。このヘルムホルツの色彩理論を発展させたジェームズ・クラーク・マクスウェル(James Clerk Maxwell)は『混合色論(On the Theory of Compound Colours)』(1860)を刊行、デーナ・エステ(Dana Estes)とハインリッヒ・シェレン(Heinrich Schellen)は『要説スペクトル分析(Spectrum Analysis Explained)』(1872)を発表、色彩が人間の知覚に基礎を置くことを強調しました。

20世紀に入ると、色彩理論は心理学や進化生物学にも応用されるようになり、加えて一般読者の関心をも集めるようになります。最新の化学と色彩工業研究を統合したアーサー・ハット(J. Arthur H. Hatt)の『カラーリスト(The Colorist)』(1908)は、一般読者や色彩に携わる職業専門家向けの平易な解説により、多くの読者を獲得しました。

色彩に関する参考図書は、色彩についての共通語彙をも提供しました。ロバート・リッジウェイ(Robert Ridgway)が自費出版した『色彩の標準と術語(Color Standards and Color Nomenclature)』(1912)はその代表的なものです。色彩理論を芸術に戻す試みとしては、カール・ゴードン・カトラー(Carl Gordon Cutler)とスティーヴン・ペッパー(Stephen C. Pepper)の『現代色彩論(Modern Color)』(1923)があげられます。彼は、この著作で自然光をモデルにしたカラースケールを編み出しました。

Electricity and Electromagnetism(電気学と電磁気学)

  • 年代:1780年-1932年
  • 言語:英語
  • 原本所蔵機関:ハンティントン図書館
  • 収録資料:書籍1,542タイトル

18世紀から19世紀にかけての世紀転換期、電気に関する研究が開花しました。二つの帯電した物体の間に働く力が距離の二乗に反比例することを発見したシャルル・クーロン(Charles Augustin Coulomb)の『電気と磁気について(Mémoire sur l’électricité et le magnétisme)』(1785)、電気学の先行研究を要約したジョゼフ・プリーストリー(Joseph Priestley)の研究などがこの時期に刊行されます。これらの論文は、『フィロソフィカル・トランザクションズ』や『自然哲学・化学・技芸誌』など、比較的新しい雑誌に発表されました。

電気と磁気との関係を発見したハンス・クリスティアン・エルステッド(Hans Christian Ørsted)の『磁針に対する電流の影響に関する実験(Experimenta Circa Effectum Conflictus Electrici in Acum Magneticam)』(1820)も、この時期の電気の研究として画期的なものです。フランスのアンペール(André-Marie Ampère)が書いた『電気力学現象の数学理論(Mémoire sur la théorie mathématique des phénomènes électrodynamiques)』(1827)は、帯電した物体や磁石に対する電流の影響を研究したものであり、イギリスのファラデー(Michael Faraday)が書いた『電気の実験(Experimental Researches in Electricity)』(1839-1855)は、彼の電磁気現象に関する研究の集大成です。

19世紀後半になると、電気の実験に数学が用いられるようになり、研究書はより精緻なものになります。マクスウェルが1865年『フィロソフィカル・トランザクションズ』に発表した『電磁場の動力学理論(Dynamical Theory of the Electromagnetic Field)』では、光は電磁波であると定式化されました。電場と磁場の関係の数学的定式化は、1873年の『電気磁気論(Treatise on Electricity and Magnetism)』でさらに厳密なものになります。電磁気学のブレークスルーに加え、通信システム、都市の照明、交通の分野でも技術革新がもたらされました。モールスの電信、エジソンのカーボン電球に代表されるこれらの技術革新は、第二次産業革命とも称されています。また、ハインリッヒ・ヘルツ(Heinrich Hertz)は電磁波の速度が光速に等しいことを示し、ケンブリッジ大学のジョゼフ・ジョン・トムソン(Joseph John Thomson)は電子を発見しました。19世紀から20世紀への世紀転換期には、マルコーニ(Guglielmo Marconi)らが無線電信の実験を始めました。

電気の生成を解明すべく始まった19世紀の電気学では、電気現象と磁気現象が不可分に結びつき、化学過程が電気と電磁波を生成することを理解するに至りました。電気現象を研究する人を指していた18世紀の「電気技師(electrician)」という言葉は、19世紀になると、電気回路に関する専門知識を有する人を指すようになります。19世紀の電気に関する研究は、研究室の学者のみならず、発明家、実業家、一般大衆を魅了し、20世紀の更なる発展へとむかいます。

Evolution and the Origin of Species(進化論と種の起源)

  • 年代:1761年-1928年
  • 言語:英語、仏語、独語、伊語、ポルトガル語
  • 原本所蔵機関:ハンティントン図書館
  • 収録資料:書籍647タイトル

1844年、スコットランドのジャーナリスト、ロバート・チェインバース(Robert Chambers)が匿名で『創造の自然史の痕跡(Vestiges of the Natural History of Creation)』を刊行しました。生物の変異に関する概念を掘り下げ、万物は変異すると説いた本書は大きな反響を呼びました。『痕跡』が種の変異に人々の関心を振り向けるのに多大の貢献を果たしたことは、ダーウィンも認めているところです。

ダーウィンの進化論の構想は、5年に亘るビーグル号の航海からの帰還直後にまで遡ります。ダーウィンは種の変異についての考えを、地質学者のチャールズ・ライエルや生物学者のジョゼフ・フッカーといった親しい友人たちにだけ明かし、広く世に問うには、多くの証拠を集めなければならないと考えていました。進化論に関するダーウィンの最初の出版物は、1858年『ロンドンリンネ協会誌』にアルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace)の論考と併せて掲載されました。これを拡大したのが翌年の『進化論』第1版です。物議を醸すことを恐れたダーウィンは、種の究極の起源についての言及を避け、世界各国の博物学者との書簡から得られた夥しい数の実例や先行する学者の著作をエビデンスとして、人類以外の進化に焦点を当てました。

『種の起源』は出版直後から学界を超えて衝撃を与え、各国語に翻訳されました。翻訳版の中には、ダーウィンの意向に反するものもありました。最初のドイツ語訳の翻訳者、ハインリッヒ・ブロン(Heinrich Bronn)は自身も進化論に関しては一家言を持っていた人物で、いかなる進化論も自然発生説と手を携えなければならないと考えていました。フランス語訳の翻訳者、クレマンス・ロワイエ(Clémence Royer)は、ダーウィンの意向に反し、反教権的な長大な序文と脚注を加えました。それにもかかわらず、ダーウィンは外国語への翻訳が自分の考えを普及させると考え、彼の生存中、原著の英語版は6回改版され、少なくとも28カ国語に翻訳されました。

進化論が徐々に受け入れられるのを見たダーウィンは1871年に、進化論を人間の進化に応用した最初の著作『人間の進化と性選択(Descent of Man, and Selection in Relation to Sex)』を発表します。性選択の著述も拡大し、進化心理学、倫理、人種と性の相違、配偶者選択における女性の役割といった問題領域にも分け入っています。翌年『人間と動物の感情表現(Expression of the Emotions in Man and Animals)』を刊行、人間の性格を、他の人間からの遺伝という観点に加えて、動物の先祖からの遺伝という進化論の観点からも考察しています。進化論の受容はダーウィンの盟友、トマス・ハクスリー(Thomas Henry Huxley)の著作によっても促進されました。『自然界における人間の位置に関する証拠(Evidence as to Man’s Place in Nature)』(1863)は、共通の祖先という観点から人類と類人猿の進化の考えを擁護しています。

言うまでもなくダーウィンの進化論は激しい論争を巻き起こしました。ジョージ・マイヴァート(George Jackson Mivart)は『種の生成(On the Genesis of Species)』(1871)の中でダーウィンの自然選択論に対して長大な反論を加えました。

進化論は、当時の神学にも重大な影響を与えました。学説としての進化論は、キリスト教の教義とは相容れない要素を持っていたものの、進化論を唱えた科学者が宗教に反対という立場だったわけではありません。それどころか、ダーウィンの支持者の多くは強い信仰心を持っていました。19世紀の最も重要な植物学者の一人でダーウィンの友人でもあったエイサ・グレイ(Asa Gray)は有神論と合理的な科学的探求の間に矛盾はなく、自然の設計は高次の力に由来すると、ダーウィンを説得しようと努めました。彼が1876年に刊行した『ダーウィニアーナ(Darwiniana)』は、ダーウィンの進化論と神学思想の調停を試みたものです。

進化論は、ダーウィンの死後も発展を続けました。エルンスト・ヘッケル(Ernst Haeckel)は、個体発生が系統発生を繰り返すという反復説をとなえ、『自然創造史(Natürliche Schöpfungsgeschichte)』(1868)の中で、進化は22の段階で構成されていると説きました。世紀転換期には、進化論に遺伝学が導入されます。グレゴール・メンデル(Gregor Mendel)は、遺伝された特質が遺伝子の組み合わせによって伝えられると論じ、遺伝のしくみの解明への一歩を踏み出しました。メンデルの仕事は一度は忘れられたものの、1890年代にウィリアム・ベイトソン(William Bateson)により再び脚光を浴びます。ベイトソンの記念碑的著作『変異の研究の資料(Materials for the Study of Variation)』(1894)は現代遺伝学研究の扉を開き、ダーウィンの遺伝仮説に置き換わる遺伝説パンゲネシスへの道を拓くことになります。自然選択説と遺伝学が統合されることにより、進化論は一層広範に受容されるようになり、定向進化や単線進化といった従来の仮説は忘れられていきました。

Mathematics(数学)

  • 年代:1780年-1925年
  • 言語:英語
  • 原本所蔵機関:ハンティントン図書館
  • 収録資料:書籍1,725タイトル

抽象代数学、非ユークリッド幾何学、複素函数など、数学は19世紀に劇的に変化し、経済学から計算機科学まで広範囲にわたる新しい領域が生まれました。本コレクションは、19世紀数学の知的歩みの過程において生み出された重要な文献を収録します。

レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler)、エミリー・デュ・シャトレ(Émilie du Châtelet)、マリア・ガエターナ・アニェージ(Maria Gaetana Agnesi)、ジョゼフ・ルイ・ラグランジュ(Joseph Louis Lagrange)、コンドルセ(Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet)ら、18世紀の数学者が蒔いた種は19世紀に全面的に開花します。数学の革命家オイラーは、函数、因数、複素数など今日使用される数学表記法に大きく貢献しました。ラグランジュは『解析力学(Mécanique analytique)』(1788)で力学に解析の方法を応用し、ニュートン力学と最新の数学理論を架橋、コンドルセは確率論に大きな業績を残しました。

今と同様、当時も数学者の画期的な業績の多くが学位論文や教授資格取得論文で発表されました。ガウス(Carl Friedrich Gauss)は、その教授資格取得論文で平方剰余の相互法則の証明を行います。その後も多くの業績を残し、19世紀数学界に甚大な影響力を及ぼしました。また、ガウス曲率と驚異の定理を定式化した『曲面の研究(Disquisitiones generales circa superficies curvas)』は微分幾何学を確立しました。

解析幾何学を創始したアウグスト・メビウス(August Ferdinand Möbius)は、1827年の『重心の計算(Der barycentrische Calkul)』において、射影幾何学、疑似幾何学、同次座標、幾何学変換の概念を導入しました。同年、ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach)は同次座標に関する論文を発表、続いてユリウス・プリュッカー(Julius Plücker)は『解析幾何学大系(Analytisch-geometrische Entwicklungen)』により近代幾何学を確立しました。

パフヌティ・チェビシェフ(Pafnuty Lvovich Chebyshev)は数学界を震撼させた合同の理論でベルトランの仮説を証明、リーマン(Georg Friedrich Bernhard Riemann)はリーマンゼータ函数を提示しました。ガウスやルジャンドルも同様の函数を試み、ペーター・グスタフ・ディリクレ(Peter Gustav Lejeune Dirichlet)の素数、函数、変数に関する業績は統計学の基礎を築きました。

19世紀は様々な学問分野に数学が応用された時代でもあります。ジョゼフ・フーリエ(Jean Baptiste Joseph Fourier)は、物理学への数学の応用の先鞭をつけました。アントワーヌ・クールノー(Antoine Augustin Cournot)は、数理経済学の始祖とされています。1847年、ド・モルガン(Augustus De Morgan)は、ド・モルガンの法則として知られる二つの法則を提示し、集合論を創始、ゲオルク・カントールとジョージ・ブールも同じく集合論の発展に多大な貢献をします。ブールは論理学と確率論に革新をもたらし、今日ブール代数として知られる新しい方法で論理学を構築しました。

19世紀末、数学のコア概念は急速に発展を遂げます。マックス・プランクが量子論を提示するのは1901年ですが、マクスウェルは1873年の『電磁気学(A Treatise on Electricity and Magnetism)』で、後世マクスウェルの方程式と呼ばれることになる4つの偏微分方程式を提示、量子論への道を拓きます。リヒャルト・デデキント(Richard Dedekind)は数の性質を理論化し、ハインリッヒ・ヴェーバー(Heinrich Weber)は、代数学教科書のベストセラー『代数学教程(Lehrbuch der Algebra )』(1895)を刊行、現代幾何学の基礎を築いたヒルベルト(David Hilbert)は、『幾何学原理(Grundlagen der Geometrie )』において、幾何学の公理を体系化しました。

19世紀における数学の躍進は世紀が変わっても止まることはなく、とりわけ数学の形式化が進みました。数学で論理学を基礎付けることを目指したラッセルとホワイトヘッドは、1910年に『プリンキピア・マテマティカ(Principia Mathematica)』の第1巻を世に送り出します。幾何学を扱う第4巻が公刊されることはなかったものの、最初の3巻は、有限演算、超限演算、集合論、論理学などを含むそれまでの数学の集大成とも言えるものでした。第一次大戦中、反戦行動により収監されたラッセルは、獄中で『数理哲学序説(Introduction to Mathematical Philosophy )』(1919)を執筆しました。

Reports of Explorations Printed in the Documents of the United States Government
(米国政府文書に印刷された探検報告書)

  • 年代:1800年-1900年
  • 言語:英語
  • 原本所蔵機関:米国議会図書館
  • 収録資料:書籍578タイトル

アメリカは、広大な国土とその周辺海域を調査し、記録に残すために多くの探検調査隊を派遣しました。これらの調査記録は公刊され、広く一般公衆と学者の利用に供されました。本コレクションでは、これらの調査記録を包括的に収録します。以下に主要な調査探検の記録、報告書を紹介します。

◆ゼブロン・パイクのミシシッピ川水源探検
ゼブロン・パイク(Zebulon Pike)は、ルイジアナ購入によりアメリカ領となった南部地方を探検するため、1806年から1807年にかけて、グレートプレーンズからロッキー山脈地域にかけての踏破を試みましたが、途中、スペイン領侵犯を理由にスペイン人に拘束され、日誌を押収されてしまいます。釈放後、記憶を頼りに書き上げた旅行記『ミシシッピ川水源探検記(An Account of Expeditions to the Sources of the Mississippi )』(1810)は刊行直後より大評判となり、多くの言語に翻訳されました。

◆スティーヴン・ロングのミズーリ川流域探検
19世紀前半、米国は、軍事基地の建設と、グレートプレーンズから太平洋へのルートの探索を目的として、多くの小規模な軍事探検隊を派遣しました。その多くは軍事目的を達成できませんでしたが、西部に関する膨大な知識をもたらしました。
1818年、陸軍長官ジョン・キャルホーンはミズーリ川沿岸からイエローストーン川河口域にかけての地域に砦を築くために、ヘンリー・アトキンソン大佐を派遣、北西部から先住民を排除し、入植者が自由に経済活動が行えるようにしようと試みます。
アトキンソンの探検は失敗に終わりましたが、探検に同行した地形技術者スティーヴン・ロング(Stephen H. Long)率いる科学者と技術者によって、西部地域に関する科学的知見が初めて記録として残されました。ロングは探検の弁明書として、報告書『ミズーリ川流域探検記(Report of an Expedition up the Missouri River)』を提出、探検途上で得られた多くの発見を『ピッツバーグからロッキー山脈までの探検記(Account of an Expedition from Pittsburgh to the Rocky Mountains )』(1822-1823)として刊行しました。

『ピッツバーグからロッキー山脈までの探検記』所収の写真と挿絵

◆大陸横断鉄道の最良のルート確認のための調査探検
これらの探検は科学的知識を増進するとともに、アメリカ北西部地域の経済開発への道を拓きました。最も重要なものは1850年代の太平洋鉄道調査で、主要なものだけでも7回もの調査が行われました。調査の目的は、大陸横断鉄道の最良のルートを見出すことで、政治的陰謀と経済的利害の衝突が事態を複雑にします。
政治的・経済的利害から独立した調査を行なうべく、探検調査局が創設され、その局長に就任したウィリアム・エモリーとアンドリュー・ハンフリーズは、調査に多くの科学者を同行、科学的調査が鉄道の利害に影響を受けないよう注意を払いました。また、エグロフスタイン(F.W. von Egloffstein)やリチャード・カーン(Richard H. Kern)らの挿絵画家も同行、全12巻に亘る浩瀚な報告書『ミシシッピ川から太平洋に至る最も実現可能で経済的なルートを確認するための探検と調査の報告(Reports of Explorations and Surveys, to Ascertain the Most Practicable and Economical Route for a Railroad from the Mississippi River to the Pacific Ocean)』には、彼らの挿絵が彩りを添えています。
アメリカ西部に関する百科全書とも言うべきこの報告書は、現在も歴史資料としての価値を持ちます。報告書に掲載された木版画は、人々の西部への関心を掻立て、大量に復刻されました。

『ミシシッピ川から太平洋に至る最も実現可能で経済的なルートを確認するための探検と調査の報告』所収の木版画
左:ファセナ 中央上段:ナバホ族 中央下段:サングレ・デ・クリスト山脈 左:マサチューセッツ砦

◆チャールズ・ウィルクスの太平洋調査探検
アメリカの探検は海洋にも向かいました。1838年にチャールズ・ウィルクスが米国探検隊を率いて以降、海軍は科学的知識の伸張と経済的利害の拡大に積極的な役割を果たしました。ウィルクス指揮下、6隻の船が4年をかけて南極からハワイ諸島、ピュジェット湾、フィリピンまで太平洋を走破、その距離は8万7千マイルに達しました。その後ウィルクスは、20年をかけて航海記録を編集し、浩瀚な『1838年から1842年のアメリカ探検遠征(United States Exploring Expedition, During the Years 1838–42)』を公刊しました。ここに掲載された地図、とりわけ太平洋の最初の地図は歴史的価値をもちます。ジェームズ・デーナ、ルイ・アガシー、エイサ・グレイらの科学論文も収録されています。

『1838年から1842年のアメリカ探検遠征』所収の地図と写真
地図は東アジア、写真上段がマニラ、写真下段が中国の寺院

◆アドルファス・グリーリーの北極地調査探検
1881年、軍将校のアドルファス・グリーリー(Adolphus W. Greely)は、25人の部下と共に北極の南500マイルにあるエルズミア島に気象基地を設営しました。しかし翌年、物資を供給する船がエルズミア島に到達せず、次の船も氷山に座礁、グリーリーらは島内に取り残されます。米国内の新聞はこの出来事を大きく取り上げ、政府に救助を要請、憶測が飛び交う中、議員は調査を要求、陸軍と海軍はそれに応酬、陸軍長官ロバート・リンカーンは遠征隊全員の生存は絶望との声明を出します。そんな中、グリーリーの妻、ヘンリエッタが救援隊派遣を求める運動を展開、世論に押されて派遣された救援隊は、グリーリーと5人の部下の生存を確認しました。
グリーリーらはニューヨークに凱旋帰国を果たし、苦難の経験を『レディー・フランクリン湾への米国探検報告(Report of the Proceedings of the United States Expedition to Lady Franklin Bay)』(1888)として発表しました。

グリーリーの『レディー・フランクリン湾への米国探検報告』所収の写真
左上:エルズミア島コンガーに探検隊が設営したベースキャンプ 右上:北グリーンランドのエスキモー
左下:グリーンランドのゴードハウン 右下:ジャコウウシ

◆ジェームズ・ムーニーのウーンデッド・ニー虐殺ドキュメンタリー
調査探検に携わった人々は、彼らが発見した世界が将来も存続することを願いましたが、探検がそれらの世界の破壊につながったのも事実です。彼らの報告が未開拓の資源に対する人々の欲望を呼び覚まし、動植物の固有種や先住民を排除する結果へとつながりました。
アメリカの大いなる砂漠と呼ばれたグレートプレーンズは、探検家により、鉱物資源など資源が豊富な大地として描かれましたがその結果、ジョン・フレモント以降の探検家が大陸横断鉄道、ホームステッド法、バッファローの絶滅危機、プレーンズの先住民とその生活様式の破壊への道を拓きます。この悲劇の結末、ウーンデッド・ニー虐殺に立ち会ったのがアメリカ民族学局のジェームズ・ムーニー(James Mooney)です。ムーニーによるインタビューと写真は『ゴーストダンス宗教と1890年のスー族の叛乱(The Ghost-Dance Religion and the Sioux Outbreak of 1890)』として刊行され、アメリカ先住民の文化と社会に加えられた破壊の跡を雄弁に伝えています。

『ゴーストダンス宗教と1890年のスー族の叛乱』所収の写真
左:ジョセフ酋長 中央上段:ウーンデッド・ニーの戦場 中央下段:ウーンデッド・ニーの戦死者の墓 左:ゴーストダンス

Scientific and Technical Periodicals from the Royal Society of London’s Catalogue of Scientific Papers, 1800-1900(ロンドン王立協会科学論文カタログに基づく科学技術定期刊行物)

  • 年代:1800年-1900年
  • 言語:英語、仏語、独語、伊語、西語、スウェーデン語、ハンガリー語
  • 原本所蔵機関:ドレクセル大学自然科学アカデミー
  • 収録資料:定期刊行物50誌

本コレクション収録の雑誌を通して、雑誌の専門化が進んだ19世紀の科学的発見と科学理論の軌跡が見えてきます。昆虫学、鉱物学、記載岩石学、動物学など、様々な学問分野で欧米の学者が貢献した科学の進歩のプロセスが明らかになります。『昆虫学レヴュー(Révue entomologique)』『科学のアーカイブ(Archives of Science)』などの短命雑誌から、フィラデルフィア自然科学アカデミー、ウッズホール海洋生物学研究所、王立地理学協会、ニューヨーク科学アカデミー、バイエルン科学アカデミーなど著名な研究機関の紀要まで、幅広く収録しています。

収録雑誌の中には、その分野の画期をなす論文を掲載しているケースも少なくありません。『フィラデルフィア自然科学アカデミー雑誌(Journal of the Academy of Natural Sciences of Philadelphia)』は、6つの新しい魚の種を発見したフランスの博物学者シャルル・ルスール(Charles Alexandre Lesueur )による1817年の論文に始まり、100年後の考古学者クラレンス・ムーア(Clarence B. Moore)の一連の論文で終わっています。『王立地理学協会紀要(Proceedings of the Royal Geographical Society)』の第1巻は、アルフレッド・ラッセル・ウォレス、デイヴィッド・リヴィングストーン、ヴィルヘルム・ハイディンガー、アレクザンダー・フォン・フンボルトの論文を掲載しています。さらに、これらの雑誌によって科学上の論争を追跡することもできます。19世紀の最も有名な論争であるダーウィン理論を巡る論争は『Cistula Entomologica』や『Zoologist』など多くの雑誌で取り上げられました。

 

本アーカイブは、19世紀に発生した科学の各分野での革命と発見を一望の下に収めると同時に、刊行された専門誌や教科書を通して現代の学術情報流通と大学教育の制度化の歴史的起源に迫ります。

(センゲージ ラーニング株式会社)

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