人文社会系研究

辞書にない言葉をどう調べるか?-『Web版史料纂集』活用法

2024.08.02

『Web版史料纂集』は、オンライン辞書・事典サイト「ジャパンナレッジ」の電子書籍プラットフォームJKBooksにて配信中の史料データベースです。2023年1月に「古記録編・第1期」、2024年1月には「古記録編・第2期」が配信されました。紙書籍の単なる電子書籍化にとどまらない、リサーチツールとしてのデータベース活用法を具体的に紹介します。

「古記録」とは

『史料纂集』古記録編と聞いたとき、「古記録って何?」と思う方は多いかもしれません。
古記録とは、ようは日記のことです。日本史学における「史料」は基本的に「古文書」と「古記録」から成っています。現代の小学校で例えれば、学校で配られるプリントが「古文書」に、児童の書く日記が「古記録」に相当するという風に認識しておけば、大体問題ありません。

『史料纂集』古記録編は、前近代の日記を翻刻(活字化)している史料集の一つです。

中世前期において日記を書く人の大多数は貴族でした。貴族は様々な儀式に出仕するのが日常業務で、日記というのは、そうした儀式における振る舞い方を記すものでした。振る舞いの一つ一つが仕事上の評価と出世に直結する社会だったので、日記は自分や未来の子孫のための大切な備忘でした。
ゆえに貴族の日記には、どこからどう歩いてどう曲がったとか、手をどう動かしたとか、儀式における所作が、時に驚くほど細かく書かれています。

古記録の精読とは、そうした儀式などの記事に書かれた情報・情景を、頭の中に復元しながら読んでいくことです。しかし、中世の日記は基本的に漢文で書かれていますし、今では使わない言葉も多く用いられています。

ゆえに古記録を読むときには、様々な辞書を座右に(または、今では画面上に)備え、それらとにらめっこしながら読んでいくことになります。
ただ、辞書に載っていない言葉と出会うことも、案外よくあるのです。

「反鼻」―辞書で分からない言葉

『経俊卿記』という、鎌倉時代の貴族の日記があります。
正元元年(1259)8月11日条は、後嵯峨上皇の一時的な引越し(「移徙(わたまし)」)の記事です。当時、天皇・上皇の引越しはれっきとした儀礼で、引越し先では色々な手続きが付帯して行われました。その中から一部を引用します。

【原文】次供御前物、(中略)陪膳権大納言〈師継、〉取折敷参仕、役送参議伊頼卿・時継卿・顕雅卿・経俊・高定朝臣以下勤之、反鼻役之、

【読み下し】次いで御前物を供す。(中略)陪膳は権大納言〈師継。〉折敷を取り参仕す。役送は参議伊頼卿・時継卿・顕雅卿・経俊・高定朝臣以下これを勤む。「反鼻」これを役す。

「御前物」はここでは上皇の食べる食膳のこと、「陪膳」は食膳を上皇の前に配置する係、「役送」は陪膳係のところまで食膳を運ぶ係のことです。「権大納言」や「参議」は、比較的身分の高い官職名です。
現代語訳すると、「次いで(後嵯峨上皇に)御前物を供えた。陪膳は権大納言〈師継。〉が折敷を取って参仕した。役送は参議の伊頼卿・時継卿・顕雅卿・経俊・高定朝臣以下が勤めた」となります。

さて、問題は最後の「反鼻役之」です。役送のやり方を補って説明している文章で、「役之」は「これを役す(これ=役送にあたった)」としか読むほかありませんが、前についている「反鼻」の意味がよく分かりません。
文法上は動詞(「反鼻してこれを役す」)か副詞(「反鼻にこれを役す」)か名詞(「反鼻これを役す」)かのどれかですが、この文章だけだと判断がつきません。

そこで、まずは「反鼻」で辞書を引いてみます。
『日本国語大辞典』第2版(JapanKnowledge搭載)には、中世に使われていた「反鼻(ヘンビ・ヘンピ)」という語の意味として、

①蝮(まむし)または蛇(へび)の異名

②(→扁皮)舞楽「輪台」「青海波」で用いる楽器

という2つが載っていました。ほかの辞書もほぼ同様です。

しかし、先ほどの文章にこれらの意味は合致するでしょうか。答えは否です。文脈上、ここで蛇や舞楽の話になるはずがないからです。つまりこの「反鼻」は、辞書に載っていない3つ目の意味をもつ「反鼻」だ、ということになります。

『Web版史料纂集』で用例を収集する

それでは、その3つ目の意味を調べましょう。辞書に載っていない意味を調べるとは、つまり他の古記録から用例を収集して意味を考えるということです。

古記録の用例を調べるとき、よく利用されるものに東京大学史料編纂所の公開している「古記録フルテキストデータベース」があります。同所編纂の『大日本古記録』を中心とした古記録のテキストがデータベース化されたものです。
ここで「反鼻」を検索してみたところ、6件がヒットしました。その中には先に引用した『経俊卿記』の文章も含まれており、それを除外すると、残りはおそらく楽器としての用例のみです。どうもこれだけでは、今知りたい「反鼻」の意味はよく分かりません。

では、『Web版史料纂集』はどうでしょうか。検索すると、本文として18件の用例がヒットします。そしてこの中には、私の求めている「反鼻」と同じ意味で用いられているとみられるものが16件ありました。

その中の1件、藤原兼仲の記した『勘仲記』建治3年(1277)正月9日条では、『経俊卿記』と同じく役送に関係したところで「反鼻」が使われています。

【原文】役送隆博朝臣・範賢朝臣・予・顕家・親基、不足之間上首三人反鼻、

【読み下し】役送は隆博朝臣・範賢朝臣・予・顕家・親基。不足のあいだ上首三人「反鼻」す。

「~之間」は、中世では「~なので」という意味にも使われましたので、「不足のあいだ上首三人反鼻す」とは、運ぶべき御膳の数に対して、役送のメンバーが5人だけでは足らなかったので、3人が「反鼻」することになったということでしょう。「隆博朝臣・範賢朝臣・私(兼仲)・顕家・親基の5人の役送のうち上首3人は、陪膳のいるもとに御膳を運んでから、御膳の準備場所に戻って、再び御膳を運んだ」と解釈できそうです。
よって、ここでいう「反鼻」は、「引き返すこと、立ち戻ること」を意味する動詞としてとらえるべき語であることが分かりました。

ほかの用例に照らしてみても、「不足反鼻勤之(不足は反鼻してこれを勤む)」(『勘仲記』弘安2年7月7日条)、「題名僧被物公卿反鼻取之(題名僧の被物は公卿反鼻してこれを取る)」(『公衡公記』嘉元2年7月22日条)などなど、「引き返すこと、立ち戻ること」の意味で訳して問題ないものばかりであることが確認されます。
行列の先頭の方の人が「反鼻」してきてまた並び直すという事例もありました(『公衡公記』正和4年5月23日条)。
古記録の用例検索を通じて、はじめに引いた『経俊卿記』の文章も、これでよく意味をとれるようになりました。

ところで、引き返す意味の「反鼻」は、先ほどの『経俊卿記』正元元年(1259)8月11日条が早い例のようです。そこから『勘仲記』や『公衡公記』といった鎌倉後期〜末期の日記を経て、最後は『園太暦』の貞和5年(1349)5月13日条です。
つまり、13世紀中ごろから使われはじめ、14世紀には廃れていった言葉らしいということも、『Web版史料纂集』の検索結果を俯瞰して推測することができます。

データベース検索で広がる視野

最後に、「反鼻」の語源、つまり、なぜ引き返すことを「反鼻」というようになったのか考えておきます。
『時代別国語大辞典 室町時代編』に、「馬(うま)」の子項目として、「馬の鼻を返す」という語が立項されているのを見つけることができました。「乗っている馬の鼻先を反対向きにする意で、馬をもと来た方へ向かせること、引返すことをいう」とのことです。
手綱で進行方向を逆転させるところが頭に浮かびますが、この言葉は「反鼻」とよく似ています。
『時代別国語大辞典』には用例として南北朝期の『太平記』などが挙がっていますが、鎌倉初期の説話集『古事談』第4−27「安藤忠宗、敵に馳せ向かふ事」にも用例がありました。
実は「反鼻」で用例が見つからなかった「古記録フルテキストデータベース」でも、「返鼻」では5例が出てくるのです。「反鼻」「返鼻」どちらにも表記したのでしょう。データベースは調べ方も大事だという一例でもあります。

つまり、引き返す意味の「馬の鼻を返す」という表現が鎌倉初期までに定着していて、そこからだんだん「鼻を返す」が馬だけではなく人についても使われるようになったのではないか、という推測ができそうです。
だから「反鼻」は、「ヘンビす」と音読したのではなく、「鼻をかえす」と訓読していたのだろうと考えられます。

このような細かな単語一つをも割と容易に掘り下げられるようになったという点が、『Web版史料纂集』をはじめとしたデータベースの大きなメリットだと思っています。

〔参考記事〕

Web版史料纂集・群書類従 お役立ちコンテンツ(八木書店出版部のページ)

國學院大學大学院文学研究科博士後期課程史学専攻 百瀬 顕永(ももせ あきひさ)

本稿は書評サイトAll Reviewsにて公開された記事を、八木書店の許可をいただいて転載させていただくものです。