2016年の冬から春、ベルリン自由大学の東アジア研究所に客員教授として滞在した。客員教授はインド、フランス、メキシコについで、四度目である。
ベルリン滞在の機会に、欧州13都市を回った。講演と、自分が作った記録映画の上映のためだ。企画してくれたところは、各地の大学の日本学科が多かったので、多くの日本研究者に会うことになった。そこでここでは、ヨーロッパの大学や日本研究(ジャパノロジー)の変化について感じたことを書く。
まず背景として、大学の変化がある。どこの世界もそうだが、学問とくに人文・社会科学は予算が削られ、教員の身分は不安定化している。
従前からのドイツの制度では、博士論文を書き、さらに教授資格論文を書かないと、教授になれない。博士論文を二つ書かなければならないようなものだ。
教授のもとには、助教授や助手がいるが、教授の権威が高い。このあたりは、ドイツの制度を輸入した日本の一昔前のありようと似ている。
ところが近年、労働改革によって、雇用が柔軟化された。大学でも教授以外は、ほとんど全部が有期雇用となってしまった。つまり、博士論文を二つ書き、運よく教授のポストを見つけることができた人間以外は、有期契約だということである。
よく知られるように、ヨーロッパではたいてい、大学教育は無償ないし低額である。いいことではあるが、裏を返せば、大学は授業料収入がないということだ。公的予算で大学を維持するしかないが、政府の補助金は削られている。
そこで大学は、教員たちに、外部から予算をとってくることを求める。具体的には、教員がプロジェクトを政府や企業や財団などに申請し、予算を獲得するわけだ。
これと雇用柔軟化と組み合わさった結果、何らかのプロジェクトでお金が取れた人だけ、大学に有期契約してもらえるという傾向が強くなった。プロジェクトの期間が終わったら、大学や研究所との契約が切れる。生きるためには、また別のプロジェクトを申請し、どこかの大学と契約しなければならない。
このため教員や研究員たちは、申請書や報告書を書いたり、国際会議を開いたり、論文を仕上げたりするのに忙しい。これらを怠ると、次がない。論文の発表数は確かに増えるが、不安定なのはいうまでもない。
さらに、「英語化」の波が押し寄せている。申請を行ない、有期雇用先を探すのに、ドイツ語しか書けないのでは、選択幅が大きく狭くなる。そのため、みんな英語で論文を発表し、英語で申請書を書く。それをすれば、スイスやイタリア、アメリカやシンガポールで、契約先が見つかるかもしれない。アメリカの大学で学位をとったり、研究員生活を経験したりした人も多い。
ところが、こうなるとさらに競争が激化する。こちらが他国に応募できるということは、他国からもこちらに応募できるということだ。ドイツでもどこでも、さまざまな国籍の外国人研究者が多い。次はどこの国で契約を見つけるか、という話題もよく出ていた。
ちなみに、日本以外の東アジアの大学も、同様の傾向が進んでいる。香港で聞いた話だが、「ある年から、いきなり英語の学術誌に何本論文を書いているかで業績評価されるようになり、英語ができない教授がみんな失職した」という。
こうした傾向は、ここ10年くらいで急激に進んでいる。そのためどこの国の大学に行っても、英語で用が足りるようになった。便利といえば便利だが、これがまた競争を激化させている。どこの国の研究者も、英語で競争するからだ。
こうなっては、古き良き時代のように、のんびり日本研究(ジャパノロジー)をやっていられる人は少ない。大学によっては、なんとか大学院生の就職先を改善しようとして、複数の学位を取得できるようにするところもある。つまり、日本研究だけでは就職できないから、社会学や政治学、人類学などの学位も取得可能にするのである。要するに、日本研究も、人文社会科学の一部になっているのだ。
そうなると、日本研究者(ジャパノロジスト)であっても、社会学や歴史学の理論を熟知することが必要になる。中国研究者や東欧研究者と、たとえば比較教育学の学会に出て、議論を交わしたりする人もいる。もちろん、その場合の共通言語は英語である。
そこで問題がある。日本の研究者で、日本を研究対象にしている人、たとえば歴史学や民俗学の研究者には、英語ができず、理論も学んでいない人がいる。当然ながら、そうした人が、日本国外の日本研究で位置を占めるのはむずかしくなってくる。人間だけでなく、日本語で発表した論文も同様である。
その結果、おきてきているのが、「日本研究におけるジャパン・パッシング(日本無視)」である。つまり、英語圏の日本研究が、日本語圏の日本研究を無視して、自己回転するようになってきているのだ。
もちろんヨーロッパの若手日本研究者たちも、日本語の論文をチェックはしている。しかしすべてはカバーできないし、英語の論文をチェックするのに忙しい。
この状態について、「日本研究なのに日本の研究者を無視するのはけしからん」とみなすこともできる。しかしそれが可能なのは、日本の大学が、日本の若手研究者に、ポストを提供できる間だけだ。
考えてみてほしい。たとえば日本史の研究で、日本語で論文を書いても、大学に就職できる見込みがなくなったら? 英語で論文を書いて、国外で職を探したほうが、まだしも展望がある状態になったら? そうなれば、若い研究者たちは、みんな英語で書くだろう。
そうした状況になるのは、遠い未来ではないように思う。日本以外のヨーロッパや東アジアの国では、英語で論文を書かないとポストがない時代に入っている。日本でも、30代以下の研究者は有期雇用が大半だ。若手の日本人日本研究者たちにも、英語の論文を公表する人が増えてきた。
こうした現象は、経済学や科学の領域では、とうの昔に進んでいた。日本の人文・社会科学は、日本語の壁に守られてきたが、これからは状況が変わるだろう。
もっとも、これはチャンスでもある。なんといっても、日本語を読めるという点において、日本の研究者はアドバンテージがある。日本を対象にして、理論も導入し、英語で発信している日本人研究者は、まだ多いとはいえない。先に手をつけた者は、有利になる可能性があるだろう。
日本は巨大な国である。1億3,000万も人口がいて、識字率も高く、経済力もある。そのため、出版や学問においても、労働においても、国内市場が大きい。日本語しかできなくても、そこそこの就職口がみつかる。こんなことが達成できている国は、じつはあまりない。そうした状況を維持してきたことには一長一短があるが、おそらく長くは続けられない。
「国際化するのが望ましい」といわれていた時代は、もう終わった。「国際化しないと職がない」という時代が、すぐそこまで来ているのだ。
(慶應義塾大学 総合政策学部 教授 小熊英二)
※吉川弘文館『本郷』(2016.7/NO.124)より転載