図書館をつくる

自慢にならない話

2019.10.10

本は投機の対象になる。といってもそれは尻ポケットに入った文庫本ではなく、いわゆる稀覯本のことである。したがってそれは盗みの対象にもなる。美しい手彩色が施された植物図譜などは格好の獲物だろう。何なら一枚ずつにばらしても捌けるし、盗難が多発したため廃業に追い込まれた専門書店も実際にあるという。

グーテンベルクの時代から、いやそれ以前の写本の時代からも、書物は盗まれ続けてきた。「今こうして現存する稀覯書で、これまで一度も盗まれたことのない本など無いはずだ」と小声で主張したのは、ある老舗の古書店員だ。だが盗品は常に厄介な代物だ。盗品と知って売るのは犯罪行為に他ならないし、盗品と判明したのが売ったあとでも気まずさはぬぐえない。数ヶ月前の報道によれば、国立西洋美術館に寄贈された写本零葉の一つが盗品だったそうだが、寄贈者と被寄贈者とのいずれにしても愉快な結論ではない。

コンプライアンスなるものが幅を利かせると商売もやりにくい。消えかかった蔵書印、かすれた署名、剥げ残った蔵書票。こうした手掛かりをどこまで追跡すればよいのか。もしその結果、商品が盗品だと判明したら誰が補償してくれるのか。業者Aは仕入先Bに返金を要求する、Bはその入手先Cに返金を要求し、CはさらにDに返金を求める・・・。こうした連鎖は現実には起きないのだ。

エンゲルベルト・ケンペルがオランダ東インド会社の医師として長崎出島に赴任したのは1670年。二年余に及ぶ滞在の記録は遺稿として残され、1727年英語版が、さらに半世紀後ドイツ語版が刊行された。この間の事情については例えば Derek Massarella, ‘The History of The History’ in D. Massarella & B. M. Badart-Bailey edd., The Furthest Goal (1995) を参照。ドイツ語版公刊以前にも、ケンペルの日本誌は母国で部分的に紹介されていたが、単行本としての刊行は無かった。1783年に発行された
Abgekürzte Geschichte und Beschreibung des japanischen Reichsなる一書はタイトル通り、ドームが編纂したドイツ語版の簡約本である。内容の排列は原本を踏襲する一方、日本の政治制度を論じた第三章は圧縮され、また原著でかなりの紙数をしめる日本の文化に対する記述が削除されている点も興味深い。原本で三十九葉を数えた挿図も大幅にカット、この版では七葉を数えるに過ぎないのは流布本として止むを得ない点だろうか。とはいえむしろ当時の一般読者が手にしたのは四折本二巻の原本よりも、このような八折版だっただろうという想像はできる。日本に関する知識の伝播を担った点では原本以上だったかも知れない。

この本を手にしてまず気づいたのは、見返しと背とに書架番号が記されていたことだった。だが蔵書印は見当たらないし、消された痕跡もない。共産圏が崩壊した直後には、蔵書印がちょうど判読できない程度に消された古書が大量に出回ったものだが、どうやらそうした類いではないようだ。また個人蔵でも書架番号は往々にして書き込まれている。必ずしもどこかの図書館にあった根拠にはならない。

日本に関する欧文文献の書誌としてはアンリ・コルディエのものが必携だが、他にも有益なものは少なくない。その一つに1940年、ベルリン日本研究所と京都の独逸文化研究所とが共編した Bibliographischer Alt-Japan-Katalog 1542-1853 がある。トラウツの肝煎りで編纂されただけに、ドイツ国内の機関所蔵が網羅されており、さらに(余計なことに)それぞれの書架番号までもが記録されている。書架番号? その通り。案の定われらが一冊に大書されていた番号も見つかった。ブレーメン図書館のそれと見事に合致したのである。

まだ盗品とは限らない。合法的に廃棄処分されたかもしれないからだ。微かな希望はしかし、ブレーメン大学図書館からの回答で消滅した。第二次大戦中、連合軍の空襲をさけるべくブレーメン図書館は蔵書十万冊をベルンブルクの岩塩採掘坑に疎開させたものの、これらは戦後すべてソ連軍によって接収された。戦利品はソ連邦諸国にも分配されたらしく、アルメニアとジョージアからはソ連崩壊後、二万五千冊が返還された。今もロシアからは返還されておらず、ペテルブルクに二万冊はあるらしい。どうやらケンペルは旧ソ連から西側へ逃げ出してきたようだが、その経緯はわからない。ここでもまた盗難が橋渡しをしたのだろうか。

戦勝国による接収品を盗品と同一視できるのか、そこに疑問符を重ねるのはもちろん可能だ。しかし正当な所有権を主張するブレーメン大学図書館が、このケンペルの返還を希望していることは無視できない。いや、古書業界に長くいれば、こうしたときに別の選択肢にすすむ方法も知らないわけではない。そもそも調べなければよかったのだ。書架番号のことは意識から消し、売れれば一件落着。そうしなかったのは、矜持というより好奇心のためだろう。結局、ケンペルは在庫から除却処分をおこない、ブレーメン大学図書館へ寄贈された。

いかにも深刻な葛藤に悩んだかのようだが、実はそうではない。淡々と敗戦処理に臨んだに等しい。だが歴史の深い渦にうっかり手を巻き込まれて思わぬ怪我をした感がある。

(紀伊國屋書店 書籍・データベース営業部 佐藤)