大正12年1月の創刊号から昭和25年までの『文藝春秋』がデジタル化されるので、その意義をわかりやすく説いてほしい――。このたび編集部からそう請われたものの、わたくしはパソコンさえ触ったことのない昭和ヒトケタ世代。三百巻を超す目次に目を通して、どんな記事が載っていたのか、かつて読んだ自分の記憶を動員して振り返ってみるよりあるまい。
定価10銭というからタバコ一箱ほどの値段で売りだされた『文藝春秋』創刊号は、本文28頁で小説がまったくなく、随筆ばかりの一風かわった雑誌だった。巻頭は芥川龍之介の「侏儒の言葉」。つづいて菊池寛「新劇の力量」があり、川端康成、横光利一、直木三十五と同人の名が並んでいる。菊池の言葉どおり「自分たちが言いたいことを言う、好きなことを言う」ための雑誌であった。
大正から昭和にかわるにつれ、先行する『中央公論』や『改造』が学者先生のご高説を恭しく掲げるのに対して、根本の編集方針でこれらとは一線を画した独自の総合雑誌へと成長していく。菊池曰く、「六分の慰楽、四分の学芸、これ本誌独特の新天地なり」と。
人間的興味を誌面の核心においた菊池の発案の具体的な一例が「座談会」である。第一回は昭和2年3月号、徳富蘇峰を主賓に迎え、菊池、芥川、山本有三が囲む。続くゲストは後藤新平、新渡戸稲造、堺利彦、長谷川如是閑、柳田国男、尾佐竹猛、泉鏡花と、当代一流の大物がずらりと並び、その本音を語らせている。
六号記事(いまで言うところの埋め草的なコラム)で彩り豊かにしたのも特長で、里見弴が「空布倫」、佐佐木茂索が「猛者」の筆名で執筆し、直木三十五は創作よりもこちらで健筆を振るった。その筆鋒の鋭さは読者を大いに喜ばせたという。小林秀雄にいたっては、昭和2年7月号から「アルチュル・ランボオ伝」を連載しているが無署名だった。それもそのはず、小林はまだ大学生。『改造』の懸賞論文「様々なる意匠」で華々しくデビューするのは、それから2年後のことである。そんな年若い英俊にも菊池はすすんで誌面を提供した。
川端康成の名作『雪國』が初めて発表されたのは本誌の昭和10年新年号である、と言うと、今では驚く向きもあるかもしれない。同作は初めから長篇として書かれたものではなく、のちに『改造』『日本評論』『中央公論』などへと断続的に章を重ねることで、数年かけて創元社から長篇として単行本が出されたのである。ちなみに、『文藝春秋』の初出では「夕景色の鏡」と題され、書き出しは「国境の長いトンネル……」ではなく、「濡れた髪を指でさはつた――」であった。
「文藝」から「春秋」に話題をうつすと、昭和11年の二・二六事件に触れておくべきだろう。事件から一カ月もたたない同年4月号で「帝都を震撼せる二・二六事件の全貌」「廣田内閣に要望する座談会」「高橋是清翁のこと」「二・二六事件の当時、その日私はどうしたか?」と大特集を大胆にも組んでいる。さらに同年7月号では、健康問題を言い訳にして事件直後の首相就任を固辞した近衛文麿を登場させ、当時の心境を遠慮会釈なく問いただしている。時の人を座敷にあげて語らせる“当事者主義”は、すでにこの頃から発揮されていたのである。
昭和5年11月号からはじまった連載、城南隠士による「政界夜話」は匿名ジャーナリズムの嚆矢だろう。いまは「城南隠士」が御手洗辰雄(報知新聞出身の政治評論家)だったことは知られているが、満州事変、五・一五事件、天皇機関説事件など言論弾圧が強まる中、発売中止や全面削除の恐れをかなぐり捨てて、政界・軍部の内幕をスッパ抜き、ジャーナリズム史上で特筆すべき役割を担っていた。いまになると貴重な史料になっている。
その城南隠士が「政界夜話擱筆の辯」をついに綴らざるを得なかったのが昭和14年4月号。それから終戦まで、雑誌ジャーナリズムは用紙の配給という当局の強い弾圧的指導のもとに総崩れとなった。そのために、戦時体制に頗る順応的・便乗的な誌面にいっせいに一変してしまったのは忸怩たるところだが、目をそむけることのできない事実である。本誌も昭和15年新年号には、日独伊三国同盟推進派の二大巨頭、白鳥敏夫「日本外交の趨向」と大島浩「獨逸外交の理念」が並んでいる。これも今となれば、戦時下の言論状況を検証するにあたって、貴重な史料と言うべきだろうが、残念ながら戦争終結まで読むべきところがほとんどなくなっている。
戦後、菊池寛を社主とする旧社が解散して文藝春秋新社が設立されると、今日にまで続く“当事者主義”“現場主義”の文春ジャーナリズムがふたたび花開く。その真骨頂が昭和24年6月号の「天皇陛下大いに笑ふ」だろう。海外では天皇退位論が報じられ、国内でも天皇の戦争責任を問う声が喧しい、まさにそのときに「大いに笑ふ」が多くの国民の心をとらえたのである。本誌が“国民雑誌”と称される第一歩がここにある。時の編集長・池島信平はこの「大いに笑ふ」だけではなく、まだ生々しい傷を残す戦争の記憶にもあえて取り組み、ノンフィクション路線を強化していく。当時の目次から目を引く記事をいくつか拾ってみる。
宮本顕治「網走の覚書」(昭和24年10月号)、ヴァイニング夫人「皇太子殿下の御教育」(昭和24年11月号)、元海軍少将高木惣吉「人間・山本五十六」(昭和25年1月号)、「下山事件 捜査最終報告書」(昭和25年2月号)、辻政信「ガダルカナル」(昭和25年5月号)。
池島は言う、「事件を直接に経験、体験した人たちの記録を、歴史史料からいえば、一等史料というのだが、わたくしはこの一等史料をなるべく活字にして残しておきたいという気持があった」。
いまはいわゆるアナログ爺さんと化したわたくしではあるが、デジタル技術によって『文藝春秋』に刻まれた「一等史料」が後世に残り、多くの人に読まれるであろう喜びをひしひしと感じている。
半藤一利(はんどう・かずとし)
作家。昭和5(1930)年、東京に生まれる。28年、東京大学文学部卒業後、文藝春秋新社に入社。「週刊文春」「文藝春秋」編集長、専務取締役を経て、文筆業に。『日本のいちばん長い日』『昭和史』『漱石先生ぞな、もし』『ノモンハンの夏』など著作多数。
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