人文社会系研究

ヘラルドオブアジア:大正時代の窓を開く、出版界のパイオニア

2022.08.17

ヘラルドオブアジア

「ヘラルドオブアジア」は、1916年から24年、37年から38年の約9年発行された、大正時代の日本を知ることのできる希少な英文資料です。頭本元貞がジャパンタイムズを退社後に設立した出版社から毎週土曜日に刊行されていた週刊誌で、全400号を収録しています。

発行の目的は「日本の出来事だけでなく、日本の視点から東アジアをとらえて日本の声を確実に世界に届けること」として始まりました。
発行者の頭本は伊藤博文の秘書官を務め、伊藤暗殺後は渋沢栄一の通訳を務めていた為、国際情勢、経済情報にかなり精通していました。当時の国際情勢、日本の植民地の動向、日本政府の見解や政策に詳しい資料です。

頭本元貞(1862-1943)

  • 発行: 1916年3月~1938年10月(14年間の休刊含む)
  • 収録内容: 毎週土曜日発行、全400号。地政学、外交、金融ニュース、著名な政財界人による寄稿、広告、文学などを含む。
  • プラットフォーム: ジャパンタイムズブックビューア
  • 販売形態:
    • 既存のジャパンタイムズアーカイブのオプションとして追加購入
    • 単独購入

大正デモクラシーの息吹を伝える紙面

英字紙は数あれど、日本人が発行者となり、持論を積極的に展開した新聞は少ない。 その中で本紙は、発行者の頭本元貞の強烈な個性に裏打ちされた週刊英字紙である。 紙面は、頭本の巻頭言、国内外の著名人の寄稿、経済情報、国内外の記事の英訳などで構成される。中でも注目すべきは巻頭言だ。 後年の国家主義的な言動で知られる頭本だが、本紙では、日本陸軍や原敬首相を批判する、「リベラル」な論調が際立つ。 かつて同僚として机を並べた馬場恒吾が、頭本を敬愛したのもうなずける。 もっとも本紙は、大正デモクラシーの息吹を伝えるのだけが特徴ではない。 英字紙ならではとも言えるが、国際情勢や日本の植民地の動向に敏感だった。 国際協調に腐心した時代の日本は、このような豊かな海外情報を必要とし、また自国の立場を発信する必要があった。 紙面を通じて、第一次世界大戦から日英同盟の終焉に至る日本外交の軌跡を追えるのは、研究者には至福の時間である。

麻田雅文
岩手大学人文社会科学部准教授

日本の親独的な軍国主義批判
(1918年3月30日)

朝鮮の3・1独立運動
(1919年3月8日付)

原敬暗殺
(1920年10月30日付)

頭本のシベリア出兵批判
(1920年2月7日付)

メディア黎明期に果たした役割

『The Herald of Asia』が刊行されたころ、東アジアの帝国として成長しつつあった日本は朝鮮半島を植民地化し、1914年に中国の青島港を攻略して当時の中国への支配をさらに強めていた。 同紙は、日本についての海外の批評家を含む読者らに、ニュースや日本政府の見解、成長する大日本帝国の政策を提供することになる。 また、国内外の読者が関心を持つ日本の経済、特に日本の産業についての情報も提供する。

『The Herald of Asia』はこれらのテーマについて長文の詳細な記事を掲載し、今でいうところの「社会面」もあった。 著名な在日外国人や日本人らが参加したパーティー、式典、レセプションなどの行事を 1パラグラフの短いニュースで紹介したのである。 海外で著名人が行った日本についてのスピーチも報道した。 これらの短い記事は、現代の読者には不要なゴシップに思えるかもしれないが、当時は電話を持つ人がほとんどなく、 ラジオは黎明期にあり、民間航空機での旅はまだ何年も先のことである。 これらの短信は、比較的エリートと呼べる読者層、特に日本のエリート読者層にとって、重要な情報源となった。 そういった人々は、これらの情報について知識があったり、聞き及んでいたり、もっと知りたいと考えていたのである。

同紙編集者であった頭本元貞は、海外メディアに日本の公式見解を広めることを目的とする、日本政府後援の国際報道協会にも携わっていた。 海外の編集者が取材活動のため東京を訪れると、頭本自身、または彼を通して同紙や協会が、日本の有力者に会う手助けをした。 このように、『The Herald of Asia』は日本の見解を伝える英字メディアであると同時に、日本を訪れる海外メディアの有力者に、日本についての入門的な教えを施すといった役割も備えていたのである。

エリック・ジョンストン
ジャパンタイムズ上級特派員  

オピニオン記事や社会面の短信を掲載することで、「The Herald of Asia」は新聞に新しいスタイルを築いた。

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