『人材開発研究大全』は、そもそも「大全」を志向していたわけではなかったはずだ。たしか、『経営学習論』(東京大学出版会、2012年)を刊行したあと、人材育成をテーマに手軽で教科書的なものをお願いできないかと、中原先生との雑談のなかで話題にしたのではなかったか。学術的というよりは、入門書のような、とっつきやすいものを編集者の立場として思い描いていたのだ。しかし、それ以降こちらから積極的に働きかけることはなく、別企画の中原先生の共編著(『活躍する組織人の探究』(2014年))を編集するなかで忙しさに紛れ、自分から持ちかけた案についてすっかり忘れていた。
そんな頃、中原先生から企画案が送られてきた。それこそがまさに、後に『人材開発研究大全』となる企画案であり、売らんかな主義の編集者のケチな思惑など影も形もなく吹き飛ばす――「手軽で教科書的」な気配など微塵もない、「重厚で専門的」な――人材育成についての全40章、各章2万字、計80万字超という超弩級の内容だったのである(最終的には全33章)。かくして、「大全」と呼ぶほかない本が生まれた。中原先生の剛気には改めて敬服するばかりである。
ところで、『凡庸な芸術家の肖像:マクシム・デュ・カン論』(青土社、1988年)を刊行した当時の蓮實重彦先生が「人を撲り殺せるくらいの分厚い本を作りたかった」とどこかで嘯いていたと王寺賢太氏は述べている(『ユリイカ』平成29年10月臨時増刊号、96ページ)。この「どこか」がどこであるのかは、手元の資料からだけでは判明しなかった。が、蓮實先生は『凡庸な芸術家の肖像』のあとがきでも「ただ厚くて重い本を作りたい」と書き、また別の機会にもやはり以下のようなことを言っている。「ぶつければ相手がかなりの致命傷を負うくらい重い本ばかり出していた」「僕は、〔『凡庸な芸術家の肖像』を〕レンガだと思っているのですけどね」(『魂の唯物論的な擁護のために』日本文芸社、1994年、333ページ)。さらにはこういった証言もある。「H〔蓮實重彦〕先生に『明治の表象空間』をお送りしたら、今月末に筑摩書房より刊行予定の御高著〔『「ボヴァリー夫人」論』〕と比べ、「厚みで14ミリ勝ってうれしい」というお茶目なメールをいただいた…らしい」(ツイッター、Izumi Matsuura@izumim123 2014年6月2日)。
ことほど左様に、蓮實先生は本の物理的ボリュームやマッスに、ある種のネタとはいえ、意識的であることがこれらの発言からはわかる。翻って、中原淳先生による編著『人材開発研究大全』の編集担当としてその作業の過程で密かに意識していたことのひとつは、本のそうしたリテラルな物質としての存在感である。また、中原先生自身も、「枕」の例えで本書の刊行をウェブサイトで予告していた(http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/06/post_2429.html)。結果として、『人材開発研究大全』は900ページ、束幅6センチ強の「人を撲り殺せる」、「レンガ」であり「枕」としても十分に機能する書籍となったことは請け合いである。
以上は『人材開発研究大全』の外側についてのエピソードだが、中身に関することにも少し触れておきたい。
アメリカの国務長官や統合参謀本部議長を務めたコリン・パウエルはその著書でひとつのエピソードを述べている。それは、パウエルを含む59人の新任准将に対して陸軍参謀総長のバーニー・ロジャースが「君たち全員を乗せた飛行機が墜落し、全員が死亡したとする。その場合、君たちのあとに続く59人が君たちの代わりを務めてくれる。問題はなにもない」と言ったというものである(『リーダーを目指す人の心得』飛鳥新社、2017年、270ページ)。
『人材開発研究大全』の目的とは、このエピソードが含意することと重なるのではないだろうか。すなわち、軍隊は、誰かがいなくなる(死ぬ)だけで機能しなくなったり、その戦力が低下してしまう組織であってはならない。どれだけ優秀な指揮官を失おうが、どれだけ多くの兵士を失おうが、その欠落を即座に埋め、最高のパフォーマンスをつねに発揮しなくてはならないことに軍隊の本義があるからだ。そしてそれは軍隊だけではなく、あらゆる企業組織にこそあてはまる。
『人材開発研究大全』の各論考は、組織においてどうすれば有用な人材を育成することができるのかをさまざまなテーマのもとに考察している。組織としては採用したあらゆる人材がベストな能力を発揮できるように育てることが、ひいてはその組織の利益を高めることにつながるだろう。そしてあらゆる人材が能力を発揮できるのであれば、たとえ誰かが辞めてしまったとしても、その穴埋めをすることは比較的容易になるはずだ。そういう意味では組織の視点から人材を育成することは合理的である。では、組織で働く者一人ひとりにとってはどうだろうか。自身の能力を高め、自在に発揮できるようになることができればその組織での処遇も良くなるだろうし、その組織を辞めたとしても、別の組織への転職や転業は容易になる。そうであるならば育成されることや自身の能力を伸ばすことを拒む理由はどこにもないだろう。
以上のことから、企業にとっても、そこで働く人材にとっても、「人材開発」は最重要の課題である。世の多くの人が組織と何らかの関わりを持つことなくしては生きられない現在において「人材開発」を無視することは誰にもできない。そして当然のことながら、「人材開発」を軽視し怠る企業組織に先はない。これは他人事ではないのだ。
『人材開発研究大全』は、即座に回答や処方箋を提示するといったハウツー本やマニュアル本の類ではない。また「人材開発」にまつわるあらゆるテーマを網羅しているわけでもない。しかし、そこには編者をはじめとする執筆者がこれまで培ってきた「人材開発」についての知見が、「量質ともに」惜しみなく織り込まれていることは間違いない。
『人材開発研究大全』からいかなる知見を引き出し、どのように活かすかの道筋は、本が売れない読まれないご時世に、この厚くて重くて高価な反時代的な本書に興味を持って手にしてくださった慧眼な読者のみなさまにはきっと明瞭に見えているのではないだろうか。
(東京大学出版会 編集部 木村素明)
※今春の刊行以来各方面で好評を博している『人材開発研究大全』の電子書籍Kinoppy版が今月発売された。
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