イギリス文学・文化を研究する冨樫剛先生に研究者としての興味のありかた、資料との付き合いかたを伺う連載の第三回です。今回は初期近代イギリスの対照的な出版物2点を紹介しつつ、現代に通じる考え方を解き明かしていきます。(第一回、第二回)
娯楽と社会の関係、虚構と現実の対話を掘りおこす
――EEBOの話に戻りますが、他におもしろい資料などありますか?
先ほどの知られざる翻訳の例でもうひとつあげれば、1590年代に闇出版のかたちで出されて、発禁処分になったにもかかわらず、人気があって版を重ねたクリストファー・マーロウ訳のオウィディウスの『恋の歌』という本があります。エロティックで悪い、でも同時に知的に刺激的で新しい、というおもしろい詩集です。詩人のダンやトマス・ケアリが真似をしたり、ミルトンの作品に出てくるエロティックでドキドキさせる悪役にもつながっていて、熱い文学史とでもいうか、文学の系譜の臨場感やある種の興奮が伝わってきます。
Epigrammes and elegies. By I.D. and C.M.
出版者・出版年の記載なし、出版地は嘘
――「熱い文学史」ですか
これは今後ていねいに書いていきたいんですが、どんな作品にも大なり小なり社会的な主張、価値観の表明のような側面があると思います。現代でいえば、こども番組の『プリキュア』にも個人主義的な社会に向けて、「力を合わせよう」というようなメッセージがあったりする。それと同じように、『恋の歌』のような挑発的な作品には、当時の抑圧的な社会に対する反論という側面があったと思います。
マーロウの時代には――意味が広くて困る言葉ですが――「ピューリタン」と呼ばれる宗教的・道徳的に厳格な人々があらわれていた。「女の子は男のいそうな場所に行ってはいけない」、「男の目を惹く服装や化粧をしてはいけない」というような、特に女性に対して抑圧的な社会風潮があったんです。でもある詩でマーロウは、なんていうんですかね、こう、艶かしい関係に女性を誘いながら、「あとで服といっしょにまじめな顔を着ればいい、ピューリタンのふりをすればいい」なんて悪いことをいったりする。もちろんオウィディウスの生きたローマ時代にピューリタンなんているはずないし、そもそもキリスト教成立以前の作品なので、マーロウが勝手に書き加えているわけです。
こんなふうに、作品の発するメッセージを受け止めて、ひとりひとりの読者が自分のことや社会のことを考える――いつの時代でもそれが文学、ひいてはすべての創造作品の存在意義であるわけで、そんな娯楽と社会の関係、虚構と現実の対話を掘りおこすような仕事ができれば、などといつも思っています。
過去と今に通じるもの
もうひとつ、対極的な例としてキリスト教関係の資料を紹介します。これも近著の17世紀論集でとりあげたのですが、ケンブリッジ大学の神学者ウィリアム・パーキンズの著作集に入っている図版です。
William Perkins, The Workes of That Famous and VVorthie Minister of Christ,
in the Vniuersitie of Cambridge, M. W. Perkins (1608-1609)
――これはなんでしょう?すごろくのような図ですが。
カルヴァンの予定説を図で示したものです。予定説は高校の世界史にも出てくるかと思います。
いちばん上の三角のところに三位一体の神、父なる神と神の子と聖霊がいて、神はすべてのことをはじめから知っていて(“Foreknowledge”)、そして誰が救われるか、誰が地獄落ちかをはじめから予定している(“Predestination”)。そこから右に行く黒い線が地獄への道、左の白い線が天国行きです。最後には天国で永遠に生きる人(“Life eternal”)も地獄落ちの人(“Death eternal in Hell”)も、ともに神の正義を認めて――― “Gods iustice” ……ここのiはjで、所有格はアポストロフィなしですね―――そして神の栄光(“Gods Glorie”)を称えるという、なんというか、厳粛な学説を誰にでもわかるように図にしたものです。
これだけでも人生ゲームのようでおもしろいのですが、授業では、こういう発想は過去のヨーロッパに特有のものではなく今の日本にもある、ということを話しています。現代では死後の世界という考えはもう一般的ではないけれど、ここでいう天国と地獄を、天国のような、あるいは地獄のような就職や結婚や人生、といい換えたらどう? というような感じで。
将来の幸せが予定説のように約束されていたら安心できますよね。だから多くの人が安心を求めて高学歴やいい就職を求めたり、身だしなみを気にしたりする。いい換えれば、今の社会では高学歴・条件のいい就職・いい結婚などが、幸せな人生が予定されている証拠のようにとらえられてる。そんなかたちで、予定説的な発想は今でも少なからずあるわけです。(次回に続く)
≪冨樫先生の近著≫
『17世紀の革命/革命の17世紀』(十七世紀英文学会編、金星堂)
– 第1章「今日の花を摘む心安らかで賢い幸せな人」
インタビュー実施日、場所:2017年6月14日 フェリス女学院大学
聞き手:紀伊國屋書店
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