Web版 風俗画報は、ジャパンナレッジが提供する電子書籍プラットフォームJKBooks上で、我が国最初のグラフ雑誌「風俗画報」を提供するデータベースです。明治22(1889)年創刊、518冊からなる「風俗画報」は、わが国最大の風俗研究誌としても知られています。
風俗画報に掲載されている図版を、センゲージ ラーニング社Galeのデータベースに搭載された欧米の図版資料と比べながらご紹介する本企画、前回の「火災・防災」報道に続き、今回は災害時の「救済活動」に焦点を当ててご紹介します。風俗画報の特集号には、災害の被害報告だけでなく、その後の救済・救援に関する記述も見られます。
過去の記事はこちら
火災・防災(風俗画報 / 欧米の図版資料)
事故(風俗画報 / 欧米の図版資料)
自然災害(KINOLINE 2017年7月号)(風俗画報 / 欧米の図版資料)
起源・始まり(KINOLINE 2016年9月号)(風俗画報 / 欧米の図版資料)
万国博覧会(KINOLINE 2016年7月号)(風俗画報 / 欧米の図版資料)
行政の対応
この図には「東京 牛の御前 境内において水難者に焚き出しをするの図」というキャプションがついています。牛の御前とは墨田区にある牛嶋神社の古い呼び名です。炊き出しは東京府が行っていたようで、上の図には東京府の旗が描かれ、炊き出しを行っている人の法被にも、東という字がみえます。提灯にも本所区役所と書かれています。泣いている親子の対応をする警官の姿が印象的な図版です。
水難者に焚出しをするの図 洪水地震被害録上巻表紙 第124号(明治29年10月10日)
横浜で起きた大火の時に、人々が避難所へ避難している図です。横浜市役所、警察、商業会議所が集まって対応を協議し、小学校などに避難所を設置したとの記事があります。
災民避難場へ入るの図 諸国災害図会 第197号(明治32年9月28日)
下の図では、洪水時に工兵が船に分乗して人々の救助にあたっている様子が描かれています。災害救援には軍も出動しており、そのおかげで被害はかなり少なかったそうです。
福知山の大洪水工兵人民救助の図 各地水害図会 370号 (明治40年9月15日)
天皇、皇族の支援
災害が起こると天皇、皇后そして皇族から被災地に御救恤金(義捐金)が贈られました。
十月二十八日震災記聞 第35号(明治24年11月30日)
愛知、岐阜での震災には、計13,000円の御球恤金が贈られたと書かれています。この記事の時代より少し後になりますが、明治30年代の物価で考えると1円が現在の3,800円くらいに相当するそうですから、13,000円は現在の約5,000万円に相当することになります。御救恤金は色々な災害で贈られており、日本各地だけで無く、朝鮮、台湾にも贈られたという記事を風俗画報でみることができます。
上の記事では、皇后が負傷者の救護のために、日本赤十字社と東京慈恵病院の医師や看護婦を現地に派遣されたと記載されています。赤十字が戦時の救護活動を中心としていた当時としては画期的な出来事で、世界的にも先進的な取り組みだったそうです。その後も皇后は慈善事業の発展に尽力され、明治45年には災害救護や開発協力などを目的とする「昭憲皇太后基金」を創設されました。
日本赤十字社の活躍
日本赤十字社が被災地に始めて看護婦を派遣したのが、明治24年に発生した濃尾地震でした。派遣された看護婦10名は、日本赤十字社看護婦養成規則制定後の第1期生であったことが、風俗画報で報じられています。
明治29年、三陸地震の際に発生した津波では、日本赤十字社が設置した病院や治療所は10箇所以上、医師や看護人、看護婦も多数派遣されたそうです。この時代には、各地に日本赤十字社支社も設置されていました。
相川村の赤十字社出張所 海嘯被害録上巻 第118号(明治29年7月10日)
なお、日本赤十字社の活躍は、災害時のみならず、戦争の特集号にも沢山掲載されています。
赤十字派遣人員他/右:志津川赤十字仮病院内の図 海嘯被害録上巻 第118号(明治29年7月10日)
宗教界の対応
災害支援の拠点として、多くの神社や寺が臨時の病院がわりに使われました。
寺の門前は遺体置き場に使われ(上図)、庵室は、着る物の無い人達の臨時事務所となりました。衣服の代用に仏旗が提供されています(下図)。
釜石町石応寺門前伏屍相累なるの図 海嘯被害録上巻 第118号(明治29年7月10日)
久慈町の被害民寺中の仏旗を取出して身に纏うの図 海嘯被害録下巻 第120号(明治29年8月10日)
下の記事では、築地本願寺や芝の増上寺が被災者救援に協力している様子が書かれています。下右図では、救援の拠点になったお寺で兵士とお坊さんが協力をして炊き出しをしています。提灯にかかれている 回向院というお寺は両国にあり、隣には旧国技館がありました。その旧国技館も、明治43年の水害では被災者の収容所として使われました。相撲取りも炊き出しに協力したという記事も掲載されています。
左:築地本願寺の大救護/増上寺の慰問品 水害号上 412号 (明治43年9月5日)
右:僧と兵と入乱れて炊出に努む 水害号上 412号 (明治43年9月5日)
民間、企業の対応
民間でも、様々な場面で救援に尽力する様子が報じられています。
三陸沖地震による津波の最大の被害地であった唐丹村で、鈴木琢治医師が自宅を臨時病院として開放し、負傷者の治療に奮闘している様子が描かれています。限られた医療器具などで大変だったこと思います。他の号でも、災害時に医師・看護婦がボランティアで救護にかけつけたという記事がみられます。
釜石町の医師鈴木琢治氏遭難者を救うの図 海嘯被害録下巻 第120号(明治29年8月10日)
下の図は、釜石小白浜地区の豪商、磯崎富右衛門が米を蓄えていた倉庫を開放し、罹災者に提供した様子が描かれています。彼は災害復興にも多大な協力をしたそうで、本当に頭が下がります。三井、岩崎などの財閥も、水害時には、炊き出し、弁当・握り飯・パンの配布など、救済に尽力しました。また、風俗画報では、水害時に、危険を冒して救助活動に尽力した人々がいたことも報じられています。
小白浜の磯崎富右衛門氏倉庫を開きて窮民を救ふの図 海嘯被害録下巻 第120号(明治29年8月10日)
風俗画報の記事や図からは、編集者や絵師の気持ちが伝わってきますが、災害、事故の報道では、それに加えて当時の人達が「一生懸命向き合って、お互いを助け合おうとする」気持ちも伝わってくると思います。
現代の日本でも、今まで予測できなかった災害や事故が多く起こっています。そんな時に自分はどう向き合うのか、そして何が出来るのか?「風俗画報」の中で描かれている明治・大正の人達は教えてくれているような気がします。風俗画報には、他にも災害・事故をとりあげた数多くの記事が多数とりあげられています。続きはJKBooks「Web版風俗画報」でぜひご利用ください。
なお、風俗画報が報道性を発揮したものには「災害・事故」同様に「戦争」があげられますが、こちらも多数の特集号があり、面白い記事や図が沢山載っています。
参考サイト
(株式会社ゆまに書房 第一営業部 河上 博)
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