はじめに
地理学とは、最も広範な意味において、生命と生活のための教育である
Geography is, in the broadest Sese, an educaton for life and for living.
Royal Geographical Society (with IBG)
|
我々が住む場所。我々が働く場所。今日我々が知る世界。
我々の社会の基礎的な理念―人々、文化、場所、環境―そして、それらが地理学分野の中核において、どのように作用しあい、影響しあっているのか。我々の先人たち―シャクルトン、リビングストン、ヒラリー、ベルを含む―は、未知の部分を追跡・発見するのみでなく、成功の見込みがほとんどなく、失敗する確率が驚くほど高い中で行動しました。
本稿より複数回にわたり、女性の役割からアフリカにおける植民地主義まで、地理学的な調査の学際的な領域を示し、我々の時代における最も重要な地理学者や探検への新たな視点を提供します。
その他の連載記事:
※Royal Geographical Society (with IBG)コレクションのさらに詳しい情報は以下サイトをご参照ください。
Wileyサイト:https://www.wileydigitalarchives.com/rgs/
紀伊國屋書店サイト:https://mirai.kinokuniya.co.jp/catalog/royal-geographical-society/
アフリカにおける植民地主義
活用分野
地理学、アフリカ研究、植民地史、地図製作、文化人類学、国際関係、経済史
歴史的背景
19世紀を通じて、アフリカの地図は、英国の布教、科学、帝国に関わる努力の象徴となりました。アフリカ関連の会議―布教活動の促進、川や湖の場所に関する議論、帝国主義的な枠組の遂行など―は、アフリカ大陸の大きな地図なしには終わりませんでした。1830年創設、英国王立地理学会は、探検家、兵士、行政官、博物学者間の情報交換や、様々な政府部局への情報提供や提言の役割を果たしました。協会の広い地図室は、しばしば軍事面の情報源となりました。
人
デヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)は、一般的に、19世紀における最も有名なヨーロッパのアフリカ探検家とされています。
River Shire from Lake Nyassa to the Sea. The River Shire from the Murchison Cataracts to the River Zambezi Reduced from an Original by Dr. Livingstone and Mr. Thornton. [1867].” Map, 1867. Wiley Digital Archives.
リヴィングストンが有名な理由
デヴィッド・リヴィングストン(1813-1873)はスコットランドの物理学者、科学探検家、帝国主義的な改革者、反奴隷制運動家、キリスト教宣教師で、アフリカの初めての地図を製作、その多くが、今日英国王立地理学会アーカイブの中で生き続けています。19世紀末ヴィクトリア朝期における英国の最も人気の高い英雄の一人で、合法的な商業形態としての奴隷貿易を憎み、その代替手段として商業・植民地の拡大を提唱しました。
ナイル川水源を知りたいというリヴィングストンの執念は、その発見によって、ヨーロッパの地理的発見の古典期の黄金期におこなわれていた東アフリカのアラブ-アフリカ間の奴隷貿易の終結に影響を与えると信じていたことから来ています。
アフリカでの布教の旅とその死は、ヨーロッパによる「アフリカ分割」の時代に、中央アフリカでのキリスト教布教への先駆けとなりました。
探検のハイライト
リヴィングストンのアフリカ探検への情熱には、何も障壁がなかったわけではありません。1858年に、リヴィングストンは、アフリカ南東部の資源調査のためザンベジ探検に出発、ザンベジ川へとたどり着きました。探検隊のメンバーは7名、写真家の弟チャールズ、植物学者ジョン・カーク(John Kirk)、地質学者リチャード・ソーントン(Richard Thornton)、公式芸術家トマス・ベインズ(Thomas Baines)が含まれていました。
Hodson, W. Arnold. “Description of Part of the (Orange River) Sovereignty, the Course of the Limpopo and the Country between It and Delagoa Bay.”
Journal Manuscripts, 13 Apr. 1853–1 Aug. 1855
隊員の間で病気や事件が多数発生する中、ザンベジ探検は、決して順風満帆ではありませんでした。ソーントン、ベインズの脱退の原因となった議論の後、リヴィンストンの蒸気船Ma Robertのタンクが漏れ出し、隊員は徒歩で進むことを余儀なくされました。彼らは行路をシーレ川、ニヤサ湖、ルブマ川沿いに変更したものの、障害物や現地アフリカ人や奴隷商人の妨害に直面します。
この時点で、リヴィングストンの妻メアリは夫に同行していましたが、マラリアにかかって亡くなります。蒸気船を砂州の上を何マイルも引きずらなければならなくなった際には、反乱の脅威に見舞われます。その後、リヴィングストンは、英国政府から帰還命令を下され、失意の結果に陥ります。
湖を周航し、渡りきることに失敗したことは、英国の地理学者たちを失望させたものの、この遠征は、様々な植物や動物の標本を含む、いくつかの有益な結果をもたらしました。
Craig, Alexander. “David Livingstone (1813-1873).” RGS
Images Online, 1 Jan. 1856. Wiley Digital Archives.
英国王立地理学会アーカイブに含まれる関連コンテンツ&特別コレクション
リヴィングストンのナイル川水源調査関連文書、歴史的な写真、リヴィングストン、サミュエル・ベイカー(Samuel BAker)、ジョン・ハニング・スピーク(John Hanning Speke)、リチャード・フランシス・バートン(Richard Francis Burton)の開拓的な旅に関連する文書や美術作品。
Barry, G. “An Autograph Book (from G. Barry, 1955) Including Signatures of Some Members of the Endurance Expedition and a Picture Postcard Showing the Ship.”
Special Collections, No Date.
Baker, W. S. “Letters from Toofikeeya, White Nile.” Journal Manuscripts, 15 June–6 Dec. 1870.
Speke, Hanning John. “Map of Eastern Equatorial Africa.” Map, 1863.
(資料提供Wiley)