人文社会系研究

現代によみがえる『日曜報知』『婦人子供報知』(後編)

2017.09.14

――今回の復刻が、これからのメディア史研究にどのように寄与すると期待できますでしょうか?

佐藤 まず、史料の乏しい1930年代の報知新聞をめぐる新聞研究、さらに講談社および野間清治を中心にした雑誌研究、最後に「家庭向け雑誌」から解明される読者研究、この三点が大きいでしょうか。

発行元の報知新聞社は、すでに触れたように、今日も読売新聞グループ傘下のスポーツ新聞社として存続しています。しかし、創刊時には「帝都の三大紙」に数えられた名門紙でした。1872年(明治5年)に駅逓頭・前島密の発案で『郵便報知新聞』として創刊され、直営販売店制度の開始、日本初の新聞写真掲載、日本初の女性ジャーナリスト採用、箱根駅伝などスポーツイベント創設などで日本新聞史上に大きな足跡を残しています。
そうした意味では、『日曜報知』の「新年特別臨時増刊」などに掲載された報知新聞社史関連資料が貴重です。たとえば、特集「報知新聞を築き上げた人々」(1931年1月1日号)は、「前島密氏、小西敬義氏」「気節の士 栗本鋤雲先生」から始まり、「野間清治氏遂に起つ」「配するに副社長寺田〔四郎〕氏」で終わる人物中心の社史です。これは戦前の報知新聞社史『報知七十年』よりも具体的ではるかに面白い。報知新聞社を研究する上で貴重な資料といえるでしょう。また、錚々たる顔ぶれの元記者に取材した大特集「報知新聞の思ひ出―光輝ある六十年の歴史を諸名士は斯く語る」(1932年新年臨時増刊号)も貴重です。掲載順にタイトルと冒頭の見出しだけ挙げておきましょう。

加藤政之助(衆議院議員・大東文化学院総長)「大報知の黎明時代―記者は悉く大臣級の人物」、町田忠治(衆議院議員・農林大臣)「六人の大臣を出した―宛ら内閣の一敵国の観」、小栗貞雄(元衆議院議員)「受難時代を背負つて起つ―血の出るやうな奮闘」、竹村良貞(元衆議院議員・帝国通信社社長)「矢野氏の大改革―新聞発達史の貴重な一頁」、朝比奈知泉(元東京日日新聞主筆)「昼は大学へ、夜は新聞社へ―報知記者としてスタートを切つた頃」、田川大吉郎(衆議院議員・明治学院大学総理)「超政党の時代―公生明、偏生闇の題字」、熊田葦城(宗次郎)「政党の機関よりは―家庭の好伴侶にと期した」、賴母木桂吉(衆議院議員・のち報知新聞社長)「大飛躍時代―日清戦後から日露戦後まで」、浅田江村(『太陽』編集長)「大衆へ大衆へと進出―活気の源泉は三木〔善八〕氏」、小山栄達(日本画家)「思ひ出のかずかず―報知在社当時のスケッチ帖から」、岡鬼太郎(歌舞伎批評家)「極古いとこ―『日の出島』が紙上に現はれた頃」、篠田鑛造(著書『明治百話』など)「小説と挿絵の苦心―三木善八翁の片鱗」、羽仁もと子(『婦人之友』・自由学園設立者)「日本最初の女記者―校正募集に応じて踏出した第一歩」、福島太明(元政治部記者)「反響の楽しさ恐ろしさ―日露役当時の思ひ出を語る」、松村介石(キリスト教指導者)「従軍記者の資格で―奈翁墓前の滑稽劇」、太田義一(日本画家)「寺内内閣解散の思ひ出」。

しかし、『報知新聞』の黄金時代は1923年の関東大震災まで、その後は急速に衰退していきました。この名門紙を買収して「新聞王」を目指した人物こそ、『キング』の成功で絶頂にあった「雑誌王」野間清治です。それゆえ、『日曜報知』『婦人子供報知』が体現するのは、この伝統ある政論新聞の歴史というよりも、大日本雄弁会講談社社長・野間清治の「講談社文化」だといえるでしょう。
つまり、この野間社長期(1930~1938年)は報知新聞社史においても特異な時代なのです。その当時、『報知新聞』は「日刊キング」と評されることも多かったわけですね。「キング」とはもちろん、野間を「雑誌王」に押し上げた日本初の「百万雑誌」、『キング』です。この「日本一面白い、日本一為になる、日本一安い雑誌」を謳った国民大衆雑誌は、昭和前期の高級文化と大衆文化を「岩波文化と講談社文化」と呼ぶとき、後者の象徴とされる国民雑誌です。野間社長時代の『報知新聞』を「日刊キング」と言うのであれば、『日曜報知』は「週刊キング」として創刊されたと言えなくもないわけです。

『日曜報知』を史料とした研究としては、同誌に多くの漫画を描いた小野佐世男(一九〇五~五四年)の足跡を追った小野耕世「『日曜報知』時代の小野佐世男」(『Intelligence』第13号、2013年)があります。小野は『日曜報知』の研究状況について、こうまとめています。

「『日曜報知』については、佐藤卓己著『「キング」の時代 国民大衆雑誌の公共性』(岩波書店・二〇〇二年)に少し触れられているが、ほとんど参考になる資料がなく『日曜報知』そのものをなるべく多く集めて目を通すほかなかった。」

今回の復刻により、小野佐世男など風刺漫画の研究にも大きな前進が期待できることでしょう。

――同誌掲載記事の面白い具体例・エピソードがあれば、いくつか教えてください。

佐藤 野間清治は自ら「宣伝狂」とも言っていたわけですが、その自己宣伝は『日曜報知』でも徹底されていました。実際、『日曜報知』創刊号では記事中でも広告欄でも、野間清治の名前、『キング』ほか講談社の雑誌が繰り返し言及されています。たとえば、その創刊号です。囲み記事「成功を望む者の必読書は?」は、野間清治『体験を語る』(大日本雄弁会講談社、1930年6月)のパブリシティを目的としたものです。

「本書は社長が講談社を起してより二十年遂に世界的の大雑誌社とするまでの体験から生み出したもので、特に如上の問題を懇切丁寧に説いたもので、これこそ真実の成功の秘訣致富の虎の巻というべきものであらう。定価は二十銭飛ぶ様な大売行を呈してゐる。」

さらに、「街頭探検―炎熱に注ぐ一味の涼風―雑誌王国・大日本雄弁会講談社の活躍振りを見る」では、講談社が発行する各雑誌、『講談倶楽部』『少年倶楽部』『少女倶楽部』『幼年倶楽部』『現代』『雄弁』『婦人倶楽部』の編集部、写真部、書籍出版部、宣伝部、営業部など各セクションが紹介され、こう結ばれています。

「夜昼通して十七八時間、欣然として活動を続けてゐる超人的な講談社の社員少年諸君には全く敬服せざるを得ない。愉快に働けば疲れもなければ眠くもない、野間社長の如きは毎日の睡眠は三時間か四時間、然もあの巨軀に漲る溌剌たる活気は燃る火よりも盛んであると。」

この創刊号の奥付前には、見開き二頁の大広告「修養全集・講談全集・落語全集―特別分売注文殺到」が掲げられています。この全集は「円本」ブームの中で講談社が定価一円で予約販売した全集ですが、やや出遅れ気味の「円本」参入だったため、大量の売れ残りが発生してました。それを「大特価 三全集とも各一冊 一円二十銭」「好きな本を選り取り自由、一冊でも買へます。早いが勝、今スグ!」と特大活字で煽っているわけです。出版史では、この分売セールは失敗した「円本」企画の残部処理と見られているわけですけどね。

読み物として、私が気になっているのは1930年11月9日号から連載されたロバート・L・リプレー(Robert L. Ripley)の劇画読み物「驚く勿れ」Believe it or notですかね。この独特のイラストと不思議なニュース紹介は、私が子供のころ、つまり1960年代後半に愛読した『少年マガジン』の巻頭イラストを彷彿とさせます。なんとも懐かしい感じです。
リプレーの絵解きコラムは世界中の不思議な出来事を分かりやすく絵解きして当時アメリカでも人気でした。報知新聞社が特約契約して翻訳したものです。たとえば、1930年11月30日号には「鶏のダニ」と「国のない人」(アドルフ・ヒトラー)が並べて描かれています。それぞれ、短い解説が付けられています。

「餌食がないほど長生きする。」
「ドイツの二番目の大政党の首領ヒトラー氏はドイツ国民でもなければどこの国の国籍も持たない。」

ヒトラーの首相就任(1933年1月30日)は、まだ2年以上も先のことです。ヒトラーはドイツ国民に寄生するダニだという意味なのでしょうが、これを読んだ日本の読者の何割がリプレーの風刺を正しく理解できたのでしょうか。次号には「独逸のムツソリーニ」と題してヒトラーの生い立ちから解説する記事が掲載されていますが、本当はさらに詳しい読み解きが必要だったように思いますけどね。

――本誌の発行者でもある野間清治とはどういう人物だったのでしょうか?

佐藤 まず読んでほしいのは、拙著『「キング」の時代―国民大衆雑誌の公共性』(岩波書店、2002年、サントリー学芸賞受賞)の第二部「『キング』の二つの身体―野間清治と大日本雄弁会講談社」ですね(笑)。戦前の立身出世主義を体現した人物です。
野間清治を「報知新聞社々長」として紹介した記事として、『昭和新聞名家録―昭和五年』(新聞研究所、1930年)から引用しておきましょう。「雑誌王」としての足跡を丁寧にたどった後で、最後の一文で「新聞経営者としての新コース」に言及しています。ちょうど、『日曜報知』創刊時に書かれた文章ですが、いかにも「講談社文化」的な匂い(臭い)がします。全文を引用しておきましょう。

「今は日本の雑誌王として其の名声天下に普き君は群馬県士族野間好雄の長男として明治十二年一月十七日桐生市に生れ、同二十八年県立師範学校に入り三十三年卒業と同時に郷里の小学校に教鞭を執る事約二年、併し向上の念燃ゆるが如くにして小成に安じ難く、同卅五年上京して更に東京帝国大学教員養成所に学び、之れを卒業するや沖縄県立中学の教諭に任ぜられ次で同県視学に栄転したが、間もなく辞して再び東京に出て帝国大学法文科に職を奉ずる傍ら、四十二年大日本雄弁会を興して雑誌『雄弁』を創刊す。之れぞ君が日本の雑誌王と謳はるゝに至つた第一歩とも云ふべく、同誌に依つて日本の青年間に弁論の鼓吹に努め、更に同四十四年講談社を設立して雑誌『講談倶楽部』を発刊し、専心其の経営に努め着々驥足を出版界に伸し大正二年『少年倶楽部』を、同五年『面白倶楽部』、同九年『現代』『婦人倶楽部』をそれぞれ創刊し次で同十四年『キング』を発刊するや其の発行部数實に百万部を突破するの一大記録を作つて出版界を驚嘆せしめた。翌十五年更に『幼年倶楽部』を昭和三年には『面白倶楽部』を廃刊して新雑誌『富士』を創刊し、尚はお同年より翌四年十月に亘り『修養全集』『講談全集』各十二冊を刊行し続て『落語全集』三冊の発行に及び、同五年五月には『昭和天覧試合』幷に『武道宝鑑』を宮内庁の監修を経て出版した。同書は君が多年理想とする武士道鼓吹の精神から全く犠牲的出版と云はれて居る。今や君の経営する此等九大雑誌の発行部数は実に毎月三百万部を越へ、断然雑誌王野間の名を恣にして居る。而も此の間各種の書籍を出版する事数百種、雑誌報国を標榜せる君の事業は益々隆盛を極め、総社員数百名が真に文字通りの奮闘努力を日夜続けて居る事は同業者間にも有名である。家庭には左衛子夫人との間に一男あり趣味は剣道と雄弁、雑誌報国と人材の養成に抱負をいだいて着々実現の歩を運びつゝある。折から昭和五年六月、勧むるものあり大隈侯の後を継いで報知新聞社々長となり、此処に新聞経営者としての新コースに入つたが、これは斯界に大なるセンセーシヨンを捲起すと同時、その経綸は非常なる興味を以つて注目さるゝに至つた。」(266頁)

野間の報知新聞社長就任の直後の記述のため「新聞王」の実績はなく、過去の「雑誌王」の活躍ぶりのみが際立った記述となっています。その後、1937年に野間は言論界への影響力を買われて内閣情報部参与となっています。その際の肩書きは報知新聞社社長ですが、言論界への影響を言うのであれば、大日本雄弁会講談社社長の方が実質的ではあったかもしれません。(終)

 

(京都大学大学院 教育学研究科 教授 佐藤卓己)

※聴き手 柏書房 編集部 山崎孝泰

 

★「前編」はこちら

 

◆刊行計画◆
第1回配本『日曜報知』第1号~第82号(1930~1931) B5判上製・全9巻
ISBN978-4-7601-4799-1 揃本体180,000円(分売不可、消費税別途)
(以下、続刊)
第2回配本『日曜報知』第83号~第185号(1932~1933)【2017年10月刊行予定】
第3回配本『日曜報知』第186号~第262号(1934~1937)【2018年4月刊行予定】
第4回配本『婦人子供報知』第1号~第67号(1932~1933)【2018年10月刊行予定】
第5回配本『婦人子供報知』第68号~第143号(1934~1937)【2019年4月刊行予定】

 

 

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