20 世紀英国の教育改革小史
19 世紀後半に初等教育の義務教育化を実現した英国では、中等教育の義務教育化が次の教育課題として浮上しました。
中等教育の義務教育化に向けた改革は第一次大戦下で進められました。総力戦遂行のために国民に総動員を求めた政府は諸々の権利の拡充を約束しました。大戦末期の 1918 年に実現した女性参政権付与がその代表ですが、同じ年に成立した教育法(フィッシャー法)は義務教育年限の引き上げと中等教育の機会拡大を定めたもので、義務教育としての中等教育を約束するものでした。しかし、戦後の財政難の中でフィッシャー法の具体化は見送られ、義務教育としての中等教育の約束は反故にされました。
戦間期~第二次世界大戦:中等教育改革
ただ、具体化は進まなかったものの、戦間期には中等教育普及に受けた議論が展開されます。特に議論をリードしたのが労働党で、フェビアン協会の経済学者R.H.トー二ー(R.H.Tawney)が労働党の委嘱を受けた報告書『すべての人に中等教育を(Secondary Schools for All)』を発表、また政府が設置した諮問委員会からはハドウ報告(Hadow Report)やスペンス報告(Spens Report)等、中等教育に関する様々な勧告が提出されました。
これらの勧告を経て、すべての人に中等教育を提供する約束は第二次大戦期に果たされます。バトラー教育長官のイニシアティブの下、15 歳までの児童に教育機会を提供することを義務付ける教育法が 1944 年に成立、世紀初頭からの懸案だった中等教育の義務教育化が実現しました。1944 年教育法はすべての児童に中等教育の機会を提供するという機会均等の原則を骨子とするもので、教育版ベバレッジ報告とも称されますが、その一方で初等教育が終了する11 歳の時の試験(イレブン・プラス)により、グラマー・スクール、テクニカル・スクール、モダン・スクールという3 種類の中等学校への振り分けを行なう能力主義の要素をも兼ね備えていました。
3 種類の中等学校は階層を固定化する側面を持っていたため、これらを統合した総合制中等学校(Comprehensive School)を設置すべきとする考えが特に労働党の中から出てきます。20 世紀後半は総合制中等学校の是非が大きな争点となり、長期保守党政権の後、労働党が政権を獲得した 1960 年代に労働党の影響下にある地方行政当局(Local Education Authority, LEA)によって総合制中等学校の設置が進められました。
20世紀後半:科学技術の高度化と新しい時代の教育とあり方
20 世紀後半は科学技術が発展する中での教育の在り方も大きな争点となりました。大学進学者の増加を受けて、新構想大学など大学の新設が相次ぐ一方で、科学技術の高度化の時代にあって大学教育の内容も問われるようになりました。
人文的文化と科学的文化の亀裂を嘆いたチャールズ・P・スノウの講演『二つの文化と科学革命』は大学教育の在り方にも一石を投じました。専門的技能を備えた高度人材の養成が大学に求められるようになる中で、1963 年には政府のロビンズ委員会が『ロビンズ報告(Robbins Report)』を提出、高等教育の拡大を提言しました。経済の停滞と産業の衰退がイギリス病として語られた 1970 年代には、戦後福祉国家の公教育制度そのものがイギリス病を招いた原因として槍玉に挙げられます。特に批判の急先鋒になったのが保守党内の急進派で、ブラック・ペーパー(Black Paper)と呼ばれる報告書を発表し、エリート主義の立場から教育における進歩主義と平等主義を厳しく批判しました。
サッチャー政権と教育改革
この動きに労働党も対応を迫られ、1976 年に労働党のキャラハン首相はラスキン・カレッジで演説し、産業社会の要請に応える公教育改革を提言しました。戦後公教育制度における平等理念を擁護する立場にあった労働党党首が公教育の見直しを提言したことは大論争(Great Debate)を巻き起こしました。1944 年教育法によって成立した戦後公教育制度は明らかに曲がり角に差し掛かっていました。
曲がり角に差し掛かっていた公教育制度を抜本的に改革する役割は、保守党のサッチャー首相の手に委ねられました。サッチャーの教育改革の政策メニューは多岐に亘りますが、その主眼は戦後公教育制度の中で大きな権限を有し、労働党の影響下にあった地方教育当局の権限を弱め、学校に対する中央政府の統制力を強める方向での教育ガバナンスの改革にあり、その象徴となったのがナショナル・カリキュラムと全国試験の導入です。
これ以後の教育政策は保守党、労働党を問わず、基本的にはこの路線を継承する形で進められることになります。
The Times Educational Supplement(TES)について
The Times Educational Supplement(TES)は高級紙『ザ・タイムズ』の補遺として 1910 年 9 月6日に創刊されました。1914 年からは単独の刊行物となり、1916 年以降は週刊となり現在に至っています。
TES は創刊以来、英国の教育関係の情報誌、論壇誌、教職のリクルート情報誌として読者を獲得してきました。また現役の教員や教育学者等による寄稿・投書も多く、様々な議論のフォーラムとしても機能しました。
その歴史の中で画期をなしたのが第二次大戦期です。中等教育改革が日程に上っていたこの時期、編集長のハロルド・デント(Harold Dent)の 4 本の社説が教育長官バトラー(Richard A.Butler)の目に止まり、意気投合した二人は教育改革をめぐり意見交換する間柄となります。またデントは地方の教育行政や学校関係者と意見交換を重ね、これを政府にフィードバックしました。TES は単に政府の教育改革をフォローしたに止まらず、教育改革の実現に向けた世論形成を行ない、1944 年教育法(バトラー法)制定に大きな役割を果たしました。創刊以来長く、高級紙『ザ・タイムズ』の教育版に相応しく、パブリック・スクールやグラマー・スクールのようなエリート校に関する教育誌の性格が強かった TES は、デント編集長の時代に教育関係者全般を読者とする教育総合誌へと脱皮することに成功するとともに、地方の公立学校関係者とネットワークを築き、購読機関や求人広告が増加したことは、雑誌の経営基盤を安定化させることに寄与しました。
以後、戦後の経済成長と就学者数や教員数の増加の中で、1945 年に 2 万部程度だった発行部数は、1960 年には 7 万部、1980 年代末には 12 万部と拡大の一途を辿ります。また TES 成功の蔭の立役者と言われたフランク・デリー(Frank Derry)広告担当重役の下で広告収入が増加、1980 年代末には求人広告の増加を受けてページ数が拡大し、2 部構成となります。1965 年にはスコットランドの教育情報に特化したスコットランド版が始まりました。
The Times Educational Supplement Historical Archive, 1910-2000
センゲージ ラーニング Galeが提供するThe Times Educational Supplement Historical Archive, 1910-2000データベースは、The Times Educational Supplement(TES)の創刊号から2000年までの記事を原紙のイメージで提供します。本データベースでは UK 版を収録しますが、スコットランド版についても、UK 版と異なるページのみを各 UK 版の末尾に追加しています。
- 収録期間:1910年9月6日~2000年12月29日
※ 1978 年 12 月 8 日~ 1979 年 11 月 9 日の期間は労使紛争で本紙の発行が停止されたため、収録されておりません
- ページ数・号数:約 25 万ページ、4,384 号
- 機能:ページ送り、画面拡大・縮小、全画面表示、輝度・コントラスト調整のビューワ機能の他、印刷、PDF ファイルのダウンロード、OCR テキストのダウンロード、書誌自動生成、書誌情報のエクスポート、メール送信、Google /Microsoftログインとクラウド連携を実装。
- マイクロフィルムをスキャニング(一部、“Best Copy Available”等の記載がありますが、マイクロ版の注意書きです
※ 1971 年に創刊された姉妹誌 The Times Higher Educational Supplement(HES)は本データベースに収録されていません。
※一部読みにくいものがございますが、原本の状態に起因するものです。
次の記事では、教育の変遷とともに歩んできたThe Times Educational Supplement (TES)に掲載された記事を、データベースより抜粋してご紹介します。
(センゲージラーニング株式会社)
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